2010年11月16日火曜日

「そこにもうあるわけだよ」

先週水曜日、珍しく同僚と仕事のあと食事にいった。
「一杯いくか?」というやつだ。結局二人でスーパードライの瓶を90分ほどで4本飲んだからアサヒ嫌い(別に朝日新聞嫌いとは没関係)の俺にしては飲んだほうだろう。

実は、楽しかった。
面白い話が聞けた。もっと言えば、有り難い話だ。
この同僚は、俺より年は6歳ほど上で、商売の経験でいえば俺とは雲泥の差がある。彼は俺を赤子としか見ていないふうだ。
彼は、今の会社に移ってくる前はある厨房機器の卸売会社に勤めていた。作業着を着てMTの軽トラで都内を中心に関東を縦横に走り回る日々だったそうだ。
彼がこういうのだ。

「あのな、仕事してたらな、よく電話がかかってくるだろ?
マンションを買って資産運用しませんか?っていうやつだよ。俺の前の仕事ってのはあの電話をしてくるおっさんと全然変わらなかったね。
相手が仕事中だってのをよーく知ってるわけだ、やつらは。でもってマンション投資の勧誘なんてあやしいなぁと思われるのだってあいつらが一番よく知ってるよ。それなのに完全にだめもとでいっつもああいう電話をしては朝から晩まで断られ続けてるわけだ。俺の一年目なんて完全にそうだったよ。どこに飛び込んでも帰れだのうるせーだの。。。だってありふれてるんだから。誰から買ったって一緒なわけだよ。それをなんでクソガキのよく知らない俺から買うかって話だよな。。。
でもな、なんて言うのかなぁ...マンションだろうが冷蔵庫だろうがな、作っちゃったわけだよ、そこにもうあるわけだよ、『はいこれいらないから捨てますよ~』ってわけにはいかねぇんだよ。だったら俺がそれ売るしかないじゃん。頑張って売るしかないでしょ?」

これって、商売の真髄であるなにかに触れていると思った。
経済学的に言えば、需要が在って、それに対応する供給が在る。しばしばバランスが崩れることはあるが、そこは価格メカニズムが働いてやがて均衡点に至る。しばしば曲解されるA.スミスの「神の見えざる手」の差配も畢竟こういうことだ。
だが、現実はそんなモデル的な美しさとは真逆だ。供給が需要を超過して「作っちゃった」場合には、それをどうやって売って金を回収するかは、中小零細の企業にとってはそのまま生存問題に直結することもあるだろう。
彼は、そういう世界で商売をしてきた。変な言い方をすれば、「売れるはずがないもの」を売る努力を数年に渡って遂行してきた。だから、彼がする仕事には常に「これで俺は金をもらっていいのか」という意識が如実に現れる。金を稼ぐことの困難を知ればこそ、金を受け取ることについて誰よりもストイックにならざるを得ないのだろう。そこに、その商品以上の価値を自分が追加できるかの否か。それができなければー彼の言い方ではー「自分の食い扶持さえ稼げねぇ」ことになってしまうのだ。
社会人3年目が今更こんなことを言うのもいかがなものかと思うが。

さっき渋谷の宮益坂を表参道のほうから下りながら、ふと思った。

「そこにもうあるわけだよ」

という言葉。俺らの人生ではないか。
俺の人生も貴様の人生も、気が付いたときには「そこにもうあった」。それは捨てることができるものではなかった。

俺らのうちのだれ一人として、この世に「よし!1982年の4月9日に三谷原という変な名字の家の長男として生まれよう!名前は基でよろしく!」などと決定して生まれるのではない。自分では何の意識もなく、なんとなくという意識も持たぬまま、自我なくこの世に生を享け、やがて自己と世界を発見する。
なんという非合理性だろうか!!!合理的であると措定された近代的個人は、そもそもその誕生の是非さえ自分では決定できなかった。自分の存在如何について決定権を持たぬ存在が、生において合理的であろうはずがない。だって俺という精神は、「そこにもうあるわけだ」から。俺が選んだのではないのに。

しかし、俺はこの非合理性に対して真正面から向き合って立ち向かう真剣を振り回すような生き方にしか、生きるべき時間は存しないと確信する。自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る。そういう愚直な生き様によってしか、我々はこの「そこにもうあるわけだ」という非合理の罠を打ち破って成長していくことはできないように思う。

「自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る」というのは、そのまま神風特別攻撃隊の英霊の生き様ではないか。

士農工商の「商売人」であっても、よく特攻精神を堅持して戦い続けるならば、特攻隊員もどきにはなれるのではないかという淡い希望にほくそ笑みながら、赤ら顔は外苑前から銀座線に乗り込んだ。

独り言:

衛星探査機「はやぶさ」が宇宙から粒子を持ち帰ったことが快挙だそうだ。何を持ち帰ったのかと思えば、100分の1mmの粒子が数千...
だが、現代の科学技術を以てかかればこれだけでも宇宙誕生の初期の状態を解明する(「宇宙誕生の初期の状態を解明する」?????????)ことができるそうな。
頓珍漢にはどうにもチンプンカンプンだが、夢のある話ではあるようだ。
ちなみに最近よく売れている「宇宙は何でできているのか」という本はさっと読めて面白い本でした。
死ぬまでに一度は必ず宇宙に出て地球と遠い宇宙を眺めたい。俺が60歳まで生きられるなら可能になるだろう。数百万円で行ける時代が来るだろう。楽しみだ。目茶苦茶楽しみだ。
その時貴様はようやくその狭量なナショナリズムを克服できるだろうって?阿呆は寝て言うがよろしい。俺は宇宙のどこに行こうと日の丸を背負っていくだろう。日の丸は日本の旗でありながら、俺の旗でもあるのだから。

「対人戦闘用意よし」。