2010年7月31日土曜日

長渕剛「Stay Dream」と自由について

音楽をよく知らぬが、”死”という言葉で始まる歌を、我はいまだこの曲以外に知らぬ。

Stay Dream (作詞作曲:長渕剛)
(http://www.youtube.com/watch?v=Udx_aPLuR_w&feature=related)

死んじまいたいほどの 苦しみ悲しみ
そんなもののひとつやふたつ 誰もがここ
あそこにしょい込んでるもの 腰をおろし
ふさぎ込んでも答えは Nothing!
ぶっ飛ばしたいほどの 怒りや悔しさ
そんなもののひとつやふたつ 殴られた痛みは
TRYへのワンステップ 尽きせぬ自由は
がんじがらめの不自由さの中にある

※くよくよするなよ あきらめないで
Just Like a Boy その痩せこけた 頬のままで
果てしない迷路の中を 人はみんな
手探りしてでも Stay Stay Dream
そう Stay Stay Dream Stay Stay Dream※

ひねくれかけた瞳の ずっとずっと奥にもがいてる
もうひとりの俺がいる 一番怖いものは
勇気だと知った時 自分の弱さに想わず鼻をつまんだ
もうこれ以上先へは 進めない
たとえば挫折が目の前に立ちはだかる
そんな夜は心で 命の音を聞け
たかが こんな自分は!と 一度だけからかってみなよ

(※くり返し)
Stay Stay Dream Stay Stay Dream Stay Dream


誰もが好きになる歌ではないだろう。
どこかのアイドルグループがかつてうたったような、誰もが「もともと特別なおんりーわーん」というような耳に優しいが無益な慰めとは対極にある。

特に、歌詞にある、

”尽きせぬ自由はがんじがらめの不自由さの中にある”

という言葉は、時代に風化することのない金言だ。詩人・渕剛の面目躍如である。
学生時代、正直にいえば、どんな本を読んでも「尽きせぬ自由はがんじがらめ。。。?」と悩むばかりで理解できなかった。今は、体が理解する。
「がんじがらめの不自由さ」とは、「義務」のことだ。
義務。冷たい法律用語と誤解することなかれ。
法律がなかろうが、国家がなかろうが、そんな低次元のこととは全く無関係に、俺や貴様の腹のなかにある、「義務」の観念。「俺は、俺を超える高次の価値のために存在し、俺が暮らす毎日はそのためにある」という実感。それを大切にしよう。我々は、自身のためだけに生きられるほど阿呆ではないし、そんな生き様を誰も望んではいない。死に向かって一直線にあわただしく走り回る我々が、自らの人生を肯定することができるとすれば、それは総体としての人生に、自身を超える価値を与える場合のみであろう。
それを失ったら、人間は終わりだ。目的なき人生なぞ、冷え切って油が浮いたカープラーメンの汁をすするようなものだ。
「自由」という言葉のもつ心地よい響きと、それが実際に我々に与える孤独、苦悩、それを突き抜けてようやく到達する主観的につかみ取られた「義務」。
その義務は、例えば、「親として子を立派に育てること」であったり、「常に最高の料理と時間を提供すること」だったり、「祖国の永遠の繁栄の礎の基たるべく生きること」であったりするのだ。それらは、それ自体として積極的な価値を有するものだ。なんらの触媒を必要としない。(例えば金は、それ自体として価値を持たない)。自分が確固たる価値の上に存在し、それに関連付けられ、そのために生きていると実感を得られれば、我々は腹の底から愉快になれる。そうして初めて、我々は自身の腹のうちに太陽を宿す。そのとき、我々は最早外部に熱狂を求めることを必要とせぬ(渋谷でW杯の試合に熱狂するものの日常は、恐るべき虚無に彩られているのだ)。
貴様の腹のなかの、青く小さく燃える太陽を感じてくれ。
熱く生きるとは、そういう生き方をいうのであって、大勢の友人と毎夜遅くまでぐうたら小鳥のようにさえずることをいうのではない。

俺は、自由というものは、数多ある、我々が行いうる徳のなかで、自分は何れを選択し、何れにその命を燃やすのか、そういう選択の裁量のことを言うのだと信じる。
それは、けっして、「好き勝手になんでもできる」ことをいうのではない。そんな絶対王権主義時代の、消極的な自由の定義にいまだに拘泥していては、貴様の魂は浮かばれぬ。

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

と詠った吉田松陰先生も、長渕のこの詞を正しく理解することであろう。

講談社現代新書が出している、佐伯啓思「自由とは何か」を勧めたい。
小著だが、抜群である。