2010年7月25日日曜日

ダニエル・ピンク「モチベーション3.0」講談社

人間は、外部的要因(たとえば罰や報酬)以外の要因で行為することがある、しかもその時こそその人は最も「幸福」であり、近代産業的な意味での「生産性」も最大ではないか?というのは僕の学生時代からの問題意識であった。
なぜといって、以前にも書いたが、俺が最も熱心に取り組んだ物事というのは、まったく外部的な要求とか制約とかから自由なものだった。大きなブラックバスを釣ること、誰よりも早いストレートを投げること、それは別にそれができなければ誰かが俺を罰するからでも、それができればお小遣いが貰えるからでもなかったが、ほかのどんなこと(典型的には学校の勉強)よりも必死に取り組んだ。その時に発揮された俺に記憶力には家族はいつも唖然としていた記憶がある。
 さらに言えば、最近はやりの「インセンティブ」という言葉を俺は嫌う。なぜならそれは特攻隊をはじめとする英霊の死地へ赴く動機付を説明することも、まして肯定することもできないからだ。個人の行動の原理を、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のごとく理解して、人間を単に損得勘定のみで行為するホモ・エコノミカスに堕落させているようなこの理屈には、昔から論理的には説明できぬ生理的な嫌悪感を抱いていた。
 
 で、この本である。右打ちが非常に上手い(野球です)俺が勤める会社の同期のT君が推薦してくれたので、本屋で見つけて手に入れた。ありがとう。
ピンクの著書は面白いので、ハードカバーで300ページあってもあっという間に読めてしまう。
 ひどく荒っぽく要約すれば、この本の主題はこうだ。

「モチベーション3.0の時代には、人間は生存の欲求からでも、罰/報酬のためでもなく、個人の内在的な動機付により行為する。そして、その時こそ、最も創造的な仕事(=遊び)ができる。」

ということになろうか。つまり、生存への欲求(モチベーション1.0)、罰/報酬(モチベーション2.0)に続く、モチベーション3.0の時代なのだ!ということだ。人間を、単に自己の利害・経済損得のみならず、「人生を自分で管理したい、新しいことを学び創造したい、そして向上して世界に貢献したい」という人間に内在する欲求をもとに行動する」ものとして理解する。

 クリス・アンダーソンが「フリー」という本を書いて数カ月前に大変売れたが、個人が1.0や2.0の理由のみで行為すると考えるならば、ウィキペディアに無償で記事を投稿する人の行為を我々はどう理解できるだろう?不可能だ。
 モハメド・ユヌスに代表されるいわゆるソーシャル・ビジネスの隆盛についても、個人を2.0の時代のように理解していては、とても説明できない。個別企業の利益の最大化ではなく、社会的利益の最大化を目標とするソーシャル・ビジネスは今後ますます増えていくだろうが、これを行う者の動機は短期的な経済的利益のみではないことは明らかである(それを無視したり卑下したりするものではないとしても)。 
 さらに、これまたここ数年大流行の行動経済学の知見も3.0の考え方を支持していると言えるだろう。
人間が、唯一外部的かつ経済的な誘因によって行為するという定説は、すでに過去のものとなった感さえある。

 さらに、行動に対して罰や報酬を与えることは、個人の「自律性」を奪う可能性が述べられているのが興味深い。産業資本主義の時代の、「アルゴリズム的な行動」(たとえば、ひたすらネジを同じ板にとりつける仕事)などには、罰や報酬は一定程度まで有効である。だが、「右脳的な仕事―柔軟や問題解決や創意工夫、概念的な理解が必要とされる仕事―に対しては、報酬はむしろマイナスの影響を与える」そうな。なぜなら、「芸術家にとっても科学者にとっても、発明家や学生、その他すべてのひとにとって、内発的動機付―その活動に興味をひかれ、やりがいを感じ、夢中になれるからその活動をしたい、という原動力が高いレベルの創造性を発揮させるためにきわめて重要」(P.77-78)なのだから。
 これは容易に理解できる。上の例でいえば、「一日の間に締め上げたネジの数に比例して給与が増加する」となれば、労働者は給与の増加を期待する限りできる限り多くのネジを締めようとするだろう。だが、たとえば俺があるケチャップメーカーの広報戦略を立案せよと言われたコンサルタント(相談される人)である場合には、「これだけの成果をあげればボーナスをこれだけ渡そう」と言われても、なかなかよい結果につながることを予見しがたい。この場合の仕事とは、労働と比例的に計算しうるものではなく、“All or nothing”の仕事である。「報酬の存在によって、周囲がみえにくくなり、独創的な解決策を生みだしにくくなる傾向がある」。
ピンクも言うように、「これだけ仕事をすれば、これだけの成果が出る」と容易に想定しうる仕事は、もはや先進国経済においては必要とされないのかもしれない。米国の公認会計士がインドの公認会計士と戦わねばならない「Flat World」な時代においては、「誰でもできる=計量できる」仕事は、ますます発展途上国に移転されるのだから。
 
 仕事=つまらないものという隠された(?)前提の上に、企業における成果主義は成り立っている。仕事それ自体に意義があると会社の全員が感じ、理解しえたならば、個人が必ずしも彼/彼女自身の報酬に拘泥するはずがない。
 ただ、現在の総ての企業の構造(ヒューマンツリー)が、第二次世界大戦当時の各国の軍隊のそれとほぼ完全に同じであるということは、人間=報酬に従って行為するホモ・エコノミカスとして理解し処遇することの簡便さを物語ってもいようと思う。

読了前に思いつくままにざっと書いてしまった。どこかの泡沫政党の月間の機関紙の書評欄にも使えぬものだ
けれど、みなさんの読書の一助になればとても嬉しく思う。

独り言:
「ソーシャル・ビジネス」、「行動経済学」、「モチベーション3.0」、「フリー(オープンソース)」。
この四つは、すべてたがいに強い連関を有していると思う。この四つは今のところ別個に説明されているのだが、なんとかこれらを統合していひとつの新しい産業モデルの登場の意味を言語化することに挑戦したいと思う。
加えて、特に「フリー」だ。面白いのは。原始共産主義の夢ではないが、高度情報化社会(すべての個人が携帯型ツールによって世界中のあらゆる情報・知識にタダでアクセスできる社会)というのは、資本主義社会に住み慣れた我々には予想できない全く新しい時代を招来するかもしれない。

猛暑⇒ビアガーデン売上アップの方程式を理解できないのだが、なぜだ。
想像するに、彼らは、大汗をかきながら同僚や友人と冷え冷えのビールで「かんぱーい!」とやるのが好きなのだろう。つまり、厳密な意味では、高気温と冷たいビールの因果関係は直接リンクしていないのだ。
暑いときは、さらに暑いサウナで一人我慢大会をやるのが一番よいと思う。
暑い時は汗をかくチャンスでもある。

女性の言いなりにならない男。女性の自由にならない男。
そうではない男は、残念な男だ。
残念でない男でありたければ、女性からの尊敬を必死になって獲得せにゃならん。
尊敬も持てない男が、女性に「おれに従え」と言えば、そりゃチワワだってガブリとやるだろうよ。

アーネスト・ゲルナー風に近代産業が近代国家を必要とした(「産業世界では、複数の高文化が発展するが、彼らは一つの教会ではなく、ひとつの国家を必要とし、しかもそれぞれ一つの国家を必要とする」)と理解するならば、先進国が産業社会を脱しつつあるとしたら、これらの国家は一体なんの基盤の上に成立し得るだろうか。俺はわからない。
改めて問いたい。
「日本国家を現在成り立たせている原理とはなにか。」
「国家とはそもそも人間存在にとって根本的に不可欠のものであるのか。」
そして、「現在の社会とは、どういう社会であるのか。」
それを「八百万の神に象徴される大和(大なる和)の精神である」と言ってはいられないほどに、この国は空中分解の危機に接近しつつあるように思えてならない。
俺は、上のような問いが、単なる俺個人の趣味的問答を超える重要性を持つものと信じる。
1960年代には無用の問いであっただろうがね。

車が欲しいと思ったことはない。車を運転したいと思ったことは数え切れないが。
自動車メーカーが販売するのが、工業製品としての自動車である時代は日本では終わった。
今や彼らが売るべきものは、自動車がもたらす”経験”である。

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忙しいのにいつも読んでくれて、とてもありがたく思っています。
ありがとう。

山桜