2010年12月18日土曜日

頑張れば救われる、だと?

左よりのメディアに登場する左がかった知識人や、それに知ったかぶってうなづくコメンテーターやキャスターや芸能人が、「真面目に働いているのにこんな暮らし(たとえば、”派遣”のいつ職を失うかもしれぬ立場で、夫の年収250万円と妻のパート代で子ども二人を養うという暮らし)しかできないのはどこかがおかしい」と言うのをたまに聞くことがある。特に格差社会という言葉が流布し、「年越し派遣村」が日比谷公園に出来た時などはよく耳目にした。

がんばっていれば救われるとか、がんばっていれば必ず成果が出るなどというのは、あまりに幼稚な欺瞞だ。がんばったら成果が出ないと我慢できないような子どもは、何事を達成することはないだろう。

俺はそのことを、野球に教えられた。
野球というのは、ーほかにも似たような競技はあるだろうがー残酷なもので、練習すればするほど下手になるということが十分にある。
見る人が小学生のキャッチボールを30秒見れば、その子が中学校で野球をやめる子なのか、甲子園に出る高校のレギュラーになれる子なのか、六大学でスターになれる子なのか、ある程度は分かる。つまり、野球は先天的なものが99%を占めるスポーツであり、そこにおいては事後的な努力が実際のパフォーマンスに個人が期待するほど現れにくいという意味で残酷であり、だからこそ大人なスポーツであると思う。もしかしたらこれはスポーツ全般に言えることかもしれないが、野球においてはこのことは甚だしい。
たとえば漫画スラムダンクに登場する、海南高校の宮益という選手がいる。彼は、バスケットの強豪高校の部員でありながら、高校でバスケを始め、身体は小さく、スピードもない、つまり取り柄はない。その彼は、遠めからのシュートにすべてをかけて練習し、やがて海南のベンチのなかで神に次ぐシューターの地位を得るまでになった。
残念ながら、甲子園で勝とうというレベルの野球においては、こんな美談はあり得ない。脚がはやいだけで守れなくて内野手にはなれないし、肩が強いだけで打てなくては外野のポジションはとれない。
小学校一年生の時から12年間ほとんど野球漬けの暮らしをした俺は、このことを皮膚感覚として知悉するようになったのだと思う。
だから、「がんばっていれば必ず成果が出る」などという儚い幻想からは常に自由だった。がんばっているのに打てない打者、ストライクが入らない投手(俺だ俺)、そういう苦しむ姿をいやというほど間近で見てきた。
俺は自分なりに必死の思いで野球に取り組んだのだが、それは、「がんばれば必ず成果が出る」と俺が思ったからではなくて、「成果がでない可能性もある、下手をすればもっと球が遅くなる可能性もある。だけど、これに取り組まない限り俺が城東の1番を背負って甲子園で勝つことはできない」と思ったから、やったまでのことだ。

実際の経済社会においては、がんばれば救われるなどということはあり得ない。がんばらなくても、大金を稼ぐものはたまにいるし、数十年がんばってもなにも成し遂げられない者もいるだろう。
恐らく、メディアが言う「がんばれば救われる」「がんばっている人は救われるべきだ」というのは、実際とは反対の言説を言いふらして”失敗者”を慰めているだけなのだ。慰めているだけで、彼らに具体的な努力を行うことの必要性を説いていないという意味で、非常に悪質なのだ。権力を批判しているようでありながら、格差を固定化しようとしているようにさえ見える。
だってそうだろう。
自分の息子が、がんばっているが成果がでない、結婚しようにも妻に食べさせる稼ぎもないとなれば、俺が親であれば「お前のがんばり方はおかしい」というだろう。
宮益は、ひ弱な身体で牧や仙道のような選手になろうと”努力”せずに、自分にとって可能性のあるたった一点にかけてそこを追及したのだ。これこそが、真の「頑張る」ということで、闇雲にマスターベーション的に「がんばっています」という者が「救われるべきだ」などというのは自然界の競争原理を歪めるものだ。

これまでの日本(過去60年の日本)では、たぶん皆「がんばれば救われた」のだ。
巨大な自動車、電機などの裾野の広い産業が膨大な雇用を生みだし、フォーディズムよろしく国内需要の増大はそのまま労働者の賃金上昇につながった。
今、すでにその時代は終わった。一人一人が、自分が生き残るための方策を自分自身で考えて、社会にでるまで十分な準備をしておかなければ、仕事はあっという間に中国やベトナムに飛んで行ってしまうだろう。資本は一瞬で国境を超える時代なのだから。自動車がインドネシアやタイで造られる時代なのだから。厳しい時代のように見えるが、それは視点が10-20年程度の枠しかないためであって、人類の数万年の歴史をみれば、会社に就職した時点で定年までの賃金とその後の年金が保証されているー真面目に「がんばっていれば」ーというのが異常なほど幸運な社会であったとみるべきなのだ。
そんな時代なのに、小学校から大学まで、日本の子どもたちは競争から隔離され、なんとなく親と同じような暮らしができるのだろうという有りもしない夢想のなかで親の資産を食いつぶしながら大切な十代、二十代前半を過ごす。そして、社会に出てから、定昇しない賃金や残業カットに”何かが違う”と悟る。その時にはもう遅いのだ。世界の敵を相手に彼ら(俺ら)はあまりに幼稚でひ弱だ。

だが、こう言った後で、それでも俺はこう言いたいと思う。
「がんばれば救われる」というのは大嘘であるけれども、「がんばらなくては救われない」ということは未だ多くの場合真実であるということを。
そしてこう付け加えたい。
成果が出るとか出ないとかいうことは、全然本質的な事柄ではなくて、常に俺や貴様の”幸福”は、絶望を予見しながら目標に指向される死にもの狂いの努力のなかに、気まぐれに顔を半分覗かせるぐらいのものだということを。

もっとも、がんばればがんばるほどに成果をだしてしまう秀才という一群が世には存在するのだろうがね。


独り言:


・最近陰謀論がはやっているようだ。副島隆彦の本がやたらと平積みされているし、最近では雑誌でも「世界を支配する誰それ」というものに、RothchildやらGoldmansachsの名前が出ている。不穏だ。

・文芸春秋の2011年1月号の「弔辞」が面白い。特に佐藤優が米原万里に読んだ弔辞は最高だ。

・本気で遊べない男はつまらん。仕事に本気になれない男と同じくらいつまらん。
俺が今勤めている会社では、「遊ぶ」というと、「合コンにいって女の子とイチャつく」ことや「友人と毎夜飲み歩く」ことが「遊ぶ」ことであると考えれるほどに男どもの想像力が劣化していて、これではこの会社に未来はないだろう。男の遊びは、まぁいろいろあるのだろうが、どこかしら孤独を必要とするものでなければだめだと思う。そうでなければ、遊びという大切な時間のなかで己を研磨することができないからだ。
集団のなかでニコニコしている自分に対する警戒心ほど大切なものはないと心から思う。

・よい温泉につかっていると、「あぁ、母親のお腹のなかはこんな感じだったのかな」と思うことがある。暖かくて、優しくて、心が落ち着く。地球に数万年も抱かれ続けた温泉が、地球のパワーで地表に押し上げられたものならば、確かにそう感じさせられても不思議ではない。人間の体は、地球に存在する物質でしか造られていないのだから。

・「パワースポット特集」が組まれた雑誌を読んで、実際にそこまでいって「パワーをもらえました」と言える人がいるから、怪しい宗教が人間の歴史と同じ長さの歴史を持つ羽目になる。まぁ、自分で自分のやることを決められない人間は、何時も暇で退屈しているのだ。暇と退屈は、無教養人と奴隷の特権である。

・右の翼で国思い左の翼で民思う両の翼で空を翔け行ってみせましょ地獄まで

・松井冬子という有名な日本画家がいる。その人の画集の帯の言葉。

「意識の孤独を解き放ち、客体化するための手段としての可能性を美術家は握っている。美術家は、多くの主観的孤独にある視覚言語を見て、感じ、また、新たに造り出す。(中略) 自動的に他者の排除を行う運命にあるという点に於いて、美術家はナルシシストでなければならない。(中略) ナルシシズムは美術家の武器である。」
(松井冬子画集 一、河出書房出版社)