2011年6月25日土曜日

友人論

結婚して家庭を持つとなると、友人とともに過ごすことができる時間は極端に減る。
子供ができて、社会に枢要な地位を占めるようになれば、尚更旧来からの友人と会う時間は少ない。
いずれ書かないといかんと考えていた、俺の友人論を簡略ながらここに記す。

友を持ちたければ、「友なぞいなくてもよい」と思わねばならない。
これがまず最初の命題である。

「人生でもっとも大切なものは友である」

しかり、そうかもしれぬ。
これによって「友のいない人生はつまらない」などと考えてしまうことが、危険だ。
ニーチェに友が100人いたとしたら、俺はいま「ツァラトゥストラ」を読むことはできなかっただろう。友がいること、友といつでも酒を飲めることは、常に男の人生においてプラスであるとは到底言えぬ。

男の友人同士の関係は、独立した戦国武将の対等な同盟でなければならぬ。
将軍と外様大名の主従関係であってはならぬ。あるいは土曜日の昼下がりに愚痴を言い合い共通の友人のタブロイドネタで盛り上がる中年女同士の関係であってはならぬ。
そのためには、男は独立せねばならぬ。全てから独立せねばならぬ。
それは、当然に最も近しい友も含むことは論を俟たない。

大人の男同士の関係は、互いの意思がぶつかりあうところに生じる小さな爆発のようなものであるべきだ。爆発することができずマグマをためている一人の男が、同じように意思というマグマをぐつぐつと精神に漲らせている別の男と会い、それがぶつかりあって爆発する。
それが、一番楽しい。これは、男と女の関係では見出すことができぬ愉快である。
久しぶりに会う友に、心身ともにますます頑強になっている姿を見せて互いに競争しつつ成長していくのだ。

貴様は、「あいつだけには負けられぬ」という敵=友を持っているか?

独り言:

電車の車内広告である大学がこんなことを言っている。
「社会に役立つ人材を育成します」
あぁ、商業主義大学の広告宣伝だね。教育にで金儲けをしてたいそうなことだ。
大学という最高学府は、知識を求める人間が行く場所だ。それがこの大衆社会が来るところまできた現在にあっては、単なる学歴と技術と知識を得るために多くの者が通うテーマパークになった。
そもそも大学生はこう問うべきではないのか?
「『社会に役立つ』だと?そもそもその社会とはなんだ?社会なんぞあるのか?それは革命によって修正されるべきものではないのか???それ自体は正しいものなのか???」云々と。
全てを疑って、そのあとに自分の信じるものを苦しみながら見出していくということ。
それこそが、学生であることの特権であり、それさえできれば他は何もしなくてもいいのだ。
その過程で、我々は人間の幅を広げ、知識を得、歴史を知り、傲慢になり、他人を思うようになるのだ。
学生の教育に熱心な大学にだけは、俺の子供をやりたくないと思う。そうでなければ、俺の子供は勝手に自分の世界を作っていくだろう。
考えてみたほしい。スティーブ・ジョブスは、「社会の役に立ちたい」というよりも、「社会を(情報)革命で変えてやろう」と思い行動したればこそ、あれだけの事業を成しているのではないか?
ちなみに彼はスタンフォード大学の卒業式での演説で、「大学を入学から3カ月で辞めたことは、私の人生におけるもっとも素晴らしい決断でした」と言っている。大学を卒業する者たちを前にこうあっけらかんと言えるのは、なかなか気持ちが良いね。