2012年9月23日日曜日

スタバとiPhoneが人間の全てであるならば

「...ゆえにこれが引き起こした騒乱は西洋とイスラームの全面的な闘争となる。ルジャンドルが繰り返し口にする『表象の戦争』とはこれだ。すなわち、クルアーンというテクストのフィクション、その『合法性』に基づいて自己を創設するイスラームと、世俗化や神の死というフィクション、[国家]を枢軸とする政治的フィクション、そして『純粋理性』『美』『芸術』などの近代的理念というフィクション、その『合法性』に基づいて自己を創設する西欧近代との、際限のない闘争」

「野戦と永遠」の294ページ。
1988年の「悪魔の詩事件」についての記述の一部である。イスラムを冒涜するものとされたサルマン・ラシュディによる「悪魔の詩」に対して、今のように各地でデモを引き起こしインドやパキスタンでは死者も出た。

反米闘争を「テロ」だと紋切り型に断罪してしまってはいけないなどとありふれた事を言いたいのではない。

世界には、スターバックスでコーヒーを飲みながらiPhoneとかiPadとかいう奇怪な機械を指先でクリクリと操り、好きなものを好きなだけ喰らって肥え太ってからモルモットのようにトレッドミルの上でドタバタ喘ぎ、好きなだけセックスをしてからなんとなしに結婚し、仲が悪くなれば離婚して、会社に与えられた利益とかいう得体の知れない、実体がどこにあるのかも分からないものに縛り付けられ、資本主義マネージメントという宗教に汲々と媚び諂って生きることが、最も高貴な生き方だとか、そういう生き方しか最早ないのだとか、それが人間が最終的に辿り着いた究極の生の在り方なのだとか、そういうふうには考えていない沢山の人達が生きているということだ。

「新しいものとの新しい関係ではなく、古いものとの古い関係でもなく、『古いものとの新しい関係』のなかから、自由を紡ぎ出さなくてはならない」

ー「野戦と永遠」p.300

なんと愉快な言葉だろう。

繰り返し生起することの肯定。
繰り返しなされることの受容。
そのなかにおいて30世紀へと続く21世紀の保守主義は、何を見出し物語ってみせるのか?


独り言。
何年経っても同じことを言っている人間は、ー俺がそうであるような気もするがー阿呆かもしれない。その年月の間、自分の精神というOSの更新をしてこなかった可能性がある。自分の考えを紛いなりにも持とうとすれば、不断の自己批判を継続せにゃ恥ずかしくて「自分の考え」などと言えたものではない。
だが、思想なく、時代が流す情報と言葉にただ従順に従っているが故に前に会ったときと言うことが変わっているだけの人間には塵芥ほどの価値もない。