2013年12月22日日曜日

愉快だなー

教養とはなんだろうか。
古今東西の古典の有名な一文を諳んじられることだろうか。
お茶や花、ピアノやクラシックバレエを嗜んでいることだろうか。

俺思うに、教養とは、当たり前のことに感動する力のことだ。それを当たり前と思わぬ大規模にして広漠たる視野を地平と歴史に行き渡らせることだ。
真に教養というべき素養を、生来的にか、宗教を通してか、学問を修めてか得たものにとって、はっきり言って全ては偶然がもたらした世界における刹那的な不幸であり、歓喜である。

仕事を終え、家路につく。家では、妻が夕食を作って待っていて、その足元には18ヶ月の娘がいる。
週末には、陽光を浴びながら窓際でソファに腰掛けゆっくりと偉人の自伝を読める。珈琲は美味い。

俺は、この境遇には、なんの根拠もないことがよく分かる。神が差配したこの俺の小世界であれば、どんなことがあっても守られもしよう。だが、ここにそんな盤石たる根拠はない。一度俺が道を誤れば、すぐさま瓦解し二度と元には戻るまい。
だから、俺は今のこの境遇を、天がたまたま俺に気まぐれにか、俺に何かを期待してか俺に与えただけのものだと思う。故に、この上なく有り難いものだと思うし、努力して守りたいとも
思う。
全てを疑う力は、我々に孤独を要請することもある。だが、全てを疑うものは、まさに全てを疑うが故にこそ、全てのものに感謝することができるのだ。
あらゆる偶然性に時に頭を殴られ、しかしそれを抱きしめて、我々は生きていく。そしてその先には唯一絶対的なるもの、すなわち死が静かに我々を待っているだろう。
だからといって、我々は、偶然性という荒波に弄ばれ、死という絶対に絡め取られるだけの、大海に投げ出された小舟のような存在などではない。
世界に偶然性が満ち満ちていようとも、今日俺が"如何に存在するか"は、ただ俺のみが決める。ここに、究極の自由の淵源はある。
大波も鮫も襲いこよう。だが、そんなものに負けてはいられない。
舵を取るのは、我々なのだから。