2014年4月20日日曜日

集団的自衛権

集団的自衛権を巡る議論。
報道ステーションや朝日新聞は念仏のように「戦争ができる国にしていいのか、アメリカと一緒に世界で戦争をする国になるのか」と言って批判した気になっている。
あたかも日独伊三国同盟に突き進むかつての陸軍を批判するような論調である。
(もっともその昔、三国同盟軍事同盟を熱烈に支持したのは朝日新聞だったが)

まず、これは国連憲章51条に定められた権利であって義務ではない。自国と密接な関係にある国への不正なる攻撃や侵略を自国に対するものとみなして、これに対して発揮される実力行使の法的基盤が集団的自衛権である。これは国際法において全ての国家に認められる正当な権利である。
というと、「そうは言っても日本は実際には必ずアメリカとの戦争に連れていかれるのだ!否と言えるわけがない!」と、その筋の人たちは言うだろう。日本人は親分たるアメリカ様には「はい!」以外の回答はないのだ、と。つまり、これはアメリカに対する実質的な義務、しかも海外で大義が意味不明の戦争に参加せねばならん義務であるということだ。

ここで権利としての集団的自衛権についての議論が、「日本がアメリカに対して主体的に集団的自衛権を如何様に行使するやせざるや、またそれが可能か可能ならざるや」という議論に変わってしまっている。つまり、法律論を話していたはずが、外交論・安全保障論に変異してしまって、

「日本はアメリカの戦争に付き合え!と言われてNOと言えるのか?言えるわけがない。だからだめだ。」

という変な話になっているのだ。
そして、こういう彼ら集団的自衛権否認派が認識しながらもけっして自問しないのは、次のことだ。

「独立国家であるにもかかわらず、同盟国の戦争に参加するかについて諾否を言う力を持てず、自国の独立と安全を同盟国に頼っていることの是非」

これを「そんなものは問題ではない!アメリカは常に頼りになる!だから助けを求められたら『いざ鎌倉』で馳せ参じるのは当然だ!」という人とは話す気もなれない。
日本人の多くが、憲法9条改正派も護憲派も、アメリカに依存して日本のの平和を守ることだけしか考えられぬ愚昧に陥っていはしないか。
世界の時勢の本質を目を遣ることなく、「アメリカが日本を守ってくれる」ということだけは疑わないからこそ、「アメリカ様のおっしゃることを拒否できるはずもない」という思考回路になるのではないか。
もちろん、俺は知っている。戦後日本の国是は「親米」であって、それは左も右も朝日新聞も産経新聞も全く同じようにあらゆる論理・思考の前提としていることなのだ。
天皇陛下とマッカーサーが並び立ったあの写真が公開された終戦直後のあの時から、かつて大日本帝国が天皇陛下を戴いていた場所に戦後日本はアメリカ合衆国を置いた。
別に「日本は日米同盟を廃棄せよ」というのではない。しかし、集団的自衛権を巡る国会その他の議論が、「集団的自衛権も憲法は認めているのだ」とか「アメリカと一緒に世界中で戦争をやる気か」という議論に終始してしまうのは、なんとも残念なことだ。
国家の防衛というこれ以上ない大切なことを決めていこうとしている時に、日本国家が拠って立つ根本原則については誰も明確に言いはしないのだ。
もっとも、それが大人の流儀ということなのかもしれない、とも思うが。