2014年4月20日日曜日

組織の「一体感」について

組織の一体感。組織人はこれを大切にし、そのように行動するべく期待される。
だが、組織の一体感というのはそもそも何故大切なのだろうか。俺は、一体感はあるけれどもでたらめに弱い組織、チームというものはなんぼでも存在しえると思っているし、実際多く見てきた。
しかり、目的と目標(★)を明確に全軍に下知できている軍組織と目的と目標を反対に兵が理解している軍組織では、同じ装備・兵力・敵・その他条件で戦っても、結果はおのずと違ってくるだろう。
むしろ、過剰な一体感、無用な同調圧力が、組織のなかの構成員のうちの異質分子を排除する方向に働く懸念があるとはいえないだろうか。
岡山城東の野球部を思い出す。
あそこで期待されたのは、決して分かりやすい一体感でも団結でも安っぽいチームワークでもなかった。求められたのは、選手間の「人格的闘争」であり、それによる互いの人格の陶冶であり成長であったように思う。別に、独創的であることが奨励されたわけでは全くないけれども。
もっとも、恐ろしく同質的な人員により構成される組織が最大の効能を発揮するという場面がないということではないし、戦後における経済闘争の大部分を、日本企業はかつての藩を企業に置き換えたかのような強力な「一体感」を持って戦い、そして少なからぬ場面において勝ってきた。
今の時代、これからの時代、そういう旧来的な一体感に代わって組織を組織として成立せしめる組織独自の論理とは一体なんだろうか?
個人の即物的な欲求に答えるサラリーシステムだろうか。創業者の宗教的な扇動だろうか。意味不明かつ有名無実のCorporate Missionの鼓吹だろうか。
正直なところ、まだ解答を俺は得ない。
ただし次のことは確信を持って言えるように思う。
つまり、「一体感があるから強い組織である」のではなく、「目的と目標を構成員たちが強く共有しているからこそ一体感が強い」のであると。

(★:「目的はパリ奪取、目標はフランス軍」というふうに使われる。)