2013年1月27日日曜日

暴力と人間、あるいは人間の暴力


北野武監督の暴力映画(特に「Brother」)は、映画「God Father」と暴力の描き方が極めて近い。どう近いかというと、両者ともに、暴力や人間の争いを人間社会に当然存在する前提として受け入れているということだ。暴力を拒否してもいないし賛美してもいない。だから、暴力シーンはさして派手ではなく、「ぶっ殺してやる!」という言葉もなく、静かにためらいもなく銃の引鉄が引かれるだけだ(映画「アウトレイジ」では言葉の暴力を強調するために沢山言葉を入れたらしいが)。北野映画において暴力は、人間にとって異質なものだとは認識されていない。むしろ、この監督は、暴力は人間存在の真逆にあるなにかではないことを強調するために、彼の作品において暴力を常に必要としている。

これがハリウッド映画になると、「平和で素晴らしい人間社会」というのが大前提で、そこに異質な何かーそれはエイリアンだったり、テロリストだったりするのだがーが侵入してきて、これに対する異常事態として暴力が行使される。だからハリウッドの暴力というのは、その異常性を強調するために極端に派手にならざるをえない。さらに言えば、「平和で素晴らしい人間社会」の側にいる者は、「正義の味方」だから、必ず勝たないと物語が成立しないので、ハッピーエンドが約束される。そこにいたるドタバタは、ラーメンに盛られたチャーシューでしかない。

歳を重ねると、ハリウッド映画が馬鹿げて見えてくるのは、たぶん、この「平和で素晴らしい人間社会」という第一歩が、大いなる偽善であることがよくよく分かってくるからだろう。だからといって、ディズニーランドが別に無意味ではないのと同様に、ハリウッド映画に存在意義がないわけでもない。
人が死に、殺し、殺され、いがみ合い対立し、戦争は繰り返されるというのが人間の世の歴史であり常識であるとすれば、北野監督の暴力映画は、誰も本当のことをろくに言わなくなったこの世界(例えば人生はそもそも厳しいものだとか、死に物狂いになって初めてまともに生きていけるとか)で、辛うじて正気を保っているといえはしないか。その意味で、極めて常識的な映画なのだと思う。そして北野映画が退屈ではないように、常識的なるものは退屈ではない。退屈というのは馬鹿と阿呆に与えられた悪しき特権である。