2013年5月29日水曜日

「琉球民族独立総合研究会」について一言物申す

沖縄の日本からの独立を目指す会である。日本から独立して「平和と希望の島」を築いていくことが目的らしい。さしずめ今の沖縄は、「非・平和と絶望の島」ということか。

さてさて。一言述べたい。
日本人であり、倉敷人。
人間であり、男。
商売をし、政治思想を学ぶ。
古い歴史との強い繋がりを自覚し、IphoneIpad21世紀に生きる。

「沖縄人か日本人か」とか「琉球人か日本人か」という、人間個人の帰属の問題は、どれほど適切な問いかけなのだろう。
もちろんこの問いかけは思想的にも哲学的にも歴史的にも非常に興味深いものを含んでいるとは思う。居酒屋で赤ら顔でする議論の主題には悪くないかもしれない。

仮に、この問いを自問した人が、敢えて「琉球人だ」と自身を定義したとしよう。
思うに、彼らから見た「日本」が所与の前提ではないように、「琉球人」というのも作られたものに過ぎない。
琉球王国を長く治めた尚氏が作り上げた王国は、その権力確立の過程で多くの(沖縄の)地方の豪族を殲滅してきたことだろう(善いも悪いもない)。
沖縄=琉球には離島も多い。その島の人たちが、「琉球王国と我々は違う」と言うことを否定する論理を、「日本」を否定して「琉球」選び取ったこの人は持てるのだろうか。

俺は、人間はその精神において複層的なものだと思っている。
俺が宇宙人に会えば、「地球人です」と言うだろうし、カザフの人に会えば「日本から来ました」と言うだろうし、青森の人に会えば「岡山出身です」と言うだろうし、倉敷の人に会えば「小学校は中島小学校です」というだろう。
俺は、倉敷市の郊外の小さな村の出身であると同時に、日本人であり、かつ地球人でもある。時代が進めば、「銀河系から来ました」なんて言葉も意味を持つようになるかもしれない。
主観的にどの共同体に最も愛着があるかと問われれば、一生懸命答えをだそうとするだろうが、この階層構造は上下にではなく歴史的に糸を縫うようにして水平に接していると俺は考えている。
それぞれが、大きな歴史のなかで不可分の一部を担い、相互に影響を与えながら人々が紡いできたものがそれぞれの階層の歴史だと思う。どれが一番重要かと問うことは、「あなたの臓器でどれが一番重要ですか」と問うことに等しい。心臓も大切だが、さりとて肺がなければ心臓に酸素は行き渡らない。心臓を欠き血の足りぬ肺もまた機能しえない。
倉敷だけ、岡山だけ、日本だけの歴史などない。そんな歴史を捏造する人はいつも胡散臭いナショナリズムに手を染めるのだ。
「琉球」は琉球として確かにあるという発想は、「大日本帝国は神の国である」という発想と根本において違わない。そこにあるのは、「日本」は怪しいが、「琉球」は確かに"在る"という盲目ではないのか。
「琉球」にはウルトラ・ナショナリズムなど在り得ないなどというナイーブな考えを持つ人は、世界の民族紛争や内戦の歴史を少し勉強したほうがいい。
歴史において、過去300年の間に「主権国家」を名乗った者たちだけが戦争をし、殺し合いをしてきたわけではない。

複数のなかからひとつを選び取るような排他的な生き方しか我々はできないのだろうか。
俺は全然そう思わない。
人間は、複雑で在りうるし、またそうあるべきだ。
人間をひとつの共同体にはめ込んでそこへの帰属を強制することから生じる非生産性と非人間性を我々は歴史から学んできたのではなかったか。
会社に尽くし続けた40年のサラリーマン人生の果てに、退職した途端に家族以外の一切の人間関係が消滅するというあの悲劇は、日本人の「忠誠」の美徳の悪しき一側面の象徴である。

とはいえ、俺は戦後日本が沖縄に対してある種の構造的差別の体系の下に存立してきたということを否定するものではない。だが沖縄の日本国家からの独立には明確に反対の意を表する。
沖縄県民の苦しみに比して沖縄以外の県民が沖縄に寄せる関心の程度は、明らかに劣る。
だからこそ、沖縄から上がる声は大切なのだ。それは、戦後日本の体制に対して疑義を誰よりも強く投げかける力を持っている。
しかしそれが、「日本」の代わりにこの島々に「琉球」という蓋をかぶせることだけに拘泥するのであれば、それは歴史を前に進めるものとはならず、彼らが否定しようとする「日本」の名前を変えた縮小再生産としかならないだろう。

世界平和というものがありえるとすれば、それは全ての人類がそれぞれの文化的愛着や言語や民族性を投げ捨てて、最強国のそれに右に倣えしたり、あるいは人工語を作り出すように新しい「世界市民」の模型を捏造するような過程からは決して生まれはしないだろう。
それは、我々が愛する自然と似たものとなる。
サバンナを疾駆するライオンの命は、土中の微生物や細菌によって支えられている。広大な北米大陸の狼たちがエルクを斃すからこそ深い森林の緑は守られる。田舎の田んぼは、蛭から蛙からミミズからありとあらゆる生物達によって豊かにされている。
世界と自然は一色に染め上げることなぞできはしない。誰よりも「多様性」について口うるさく語りたがるアメリカ合衆国が、良くも悪くも100年間世界最強の国であることは決して偶然ではない。

だが、こういうことは、「琉球国」と同時に「日本国」の存立根拠もそもそも否定してしまうだろう。
そこで俺はEdmund Burkeの保守主義を引っ張り出したいのである。
でもそれはまた今度にすべきだろう。