2012年3月4日日曜日

天下乃諤々君一撃不若!!!


「天下の諤々(がくがく)は君が一撃に若かず!!!」

1889年11月1日、福岡県博多市の崇福寺で開催された、来島恒喜の葬儀における、頭山満の弔辞である。弔辞の一部ではなくて、ただこれだけ。

来島は玄洋社の社員。極右団体などと言われるが、そんな狭い世界に留まれる男たちの集まりではなかった。大西郷を尊敬する頭山満を筆頭に、大亜細亜主義を掲げ、掲げたのみならず実際に大陸に飛び革命家たちを命がけで支援したのが彼らである。

その社員の一人であった来島。

幕末以来の不平等条約の改正を巡って当時世論は沸騰していた。1880年代後半のことだ。
鹿鳴館を建てて欧米化政策を進めた井上馨外相が伊藤博文内閣においてまとめた改正案は、外国人にかかわる裁判の判事の多数は外国人を起用すること、また外国人居留区に限定されていた居住と商取引の制限を撤廃し全国に拡大するものだった。これについては仏人法律顧問ボアソナードも、「屈辱外交」とまで言ったそうな。
これに激怒した国民的な大反対運動により、井上は外相を辞任したが、後任の大隈重信は豪胆にも、井上案のほとんど変わらぬ改正案で走ろうとした。

政府は、1887年に保安条例を施行し、自由民権派の集会と結社を全面的に禁止した。つまり、言論封殺を意図したのである。
それまで旺盛にこの条約改正案に反論を唱え続けてきた来島は、ここで大隈を爆殺することを決意した。

そして、1889年10月19日、霞が関の外務省前。
来島は、大隈が乗った馬車を爆破し、右脚切断の重症を負わせた。政治的意思を不法な暴力行為により実現することを意図したという意味において、正真正銘のテロであった。
襲撃の直後、来島は皇居に対して一礼し、携帯した短刀で首を刺し自決。

結果、黒田内閣は外相以外全員辞職。条約改正はついに中止となり、すでに調印されていた改正についても撤回された。
つまり、テロは大成功したのである。

そして1889年11月1日、博多での来島の葬儀。来島の実家から崇福寺までの8キロの道沿いには、老若男女が人垣をなしたそうな。

その葬儀において、来島の盟友であった頭山満は、

「天下の諤々は君が一撃に若かず!!!」
(世間ではありとあらゆる人が争論しておるが、それは貴様のたった一度の行動に及ばぬ)

と言い放った。
言うほうも言うほうだが、言われるほうのやったことももの凄い。
そこらへんの芸能人が死んだ友人に送る長くつまらんお涙ちょうだい弔辞とは次元が違う。

ちなみに、やられたほうも凄い。
大隈は、後日こう発言したそうな。

「爆裂弾を放りつけた者を憎いやつとは少しも思っていない。いやしくも外相である吾輩に爆裂弾を食らわせて輿論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうとなんであろうと感心する。若い者はこそこそせず、天下を丸呑みするほどの元気がなければだめだ」

さらに大隈は、玄洋社が毎年行う来島の法事に香料を送り続けたという。

こういう話をすると、決まってこういうやつがいる。

「俺らの時代にいきていれば、彼らも俺らと同じ程度の人間さ」

然り、そうかもしれぬ。
だが、この場合、来島は実行したのだ。俺や貴様が反対の立場にあったとき、つまり1889年の秋を生きる大丈夫であったとき、来島と同じことができたか???できるか???

「テロを認めるのか?」と言いたい人がいるかもしれない。
確かに、戦前の日本は一大テロ大国だったから、テロという言葉は9.11があろうがなかろうが日本においては重大な意味を持っている。
暴力によって意思を実現することが必ず歴史に鑑みて正しいとはいえぬ。だが、国家とは暴力を正当に行使する権利を独占する団体である。そして、国家そのものがテロを行うことだって幾らでもあるのだ。歴史はこれを証明している。
我が身と引き換えにでも実力で以てことをなそうという気迫は、無条件の尊敬に値する。
大隈が上記のように言ったのも、自分と来島が祖国の独立と繁栄を願う同志であるという強い認識があったからに違いない。

歴史というものが、人を作るのだなと思う。
人は歴史に対して作用を行うのみならず、歴史との相互の連関の内に自己を見出し、歴史を把握するのだ。
歴史を作るのは必ずしも世界史的個人だけではないだろう。
世界史的個人が特殊的意思を持つにいたる過程において、それまでの歴史が彼の断固たる決意を促すのである。

上記は、小林よしのり「反TPP論」幻冬舎より。