2010年9月4日土曜日

遅ればせながらのMichael J. Sandel「これからの正義の話をしよう」



さて、大人気のサンデルさんである。
いまだに東京都内のどこの本屋にいっても店の入り口に平積みにされている。まぁここまで売れるのも日本人の右に倣え傾向のなせる業ではあるのでしょう。

マイケル・サンデルは、1953年生まれで現在ハーバード大学教授。オックスフォード大学にて博士号を取得した。専門は政治哲学である。政治哲学という場合、特に断りがなければ政治思想と同一視して問題ないと思う。
NHKの「ハーバード熱血教室」という番組でも放送された彼の「Justice(正義論)」の講義がハーバード大学で大人気になり、開学数百年を経て初めての一般公開講座にされてしまったという、ごくまれに経済学者では出てくるが政治学や哲学では非常に少ない、“スター学者”である(日本でだけかもしれぬが)。

この本の内容は、功利主義、自由至上主義、市場、カント、ロールズ、アファーマティヴ・アクション、アリストテレスなどの、大学で政治思想の講義なりゼミなりをとればどれも必ず読まされることになる主題ばかりで、それらに目新しさは特にない。
この著書が独特なのは、我々が日常生活において直面する、あるいは経験する可能性のある問題を具体的に列挙してそれにカントとかアリストテレスを引っ張りながら解釈を行っている点だ。

例えば、功利主義(最大多数の最大幸福が「正しい」とする政治思想における一大勢力。ジェレミー・ベンサムに源流をたどることができるが、小学生でも思いつく考え方だろう)はついて説明した第2章では、19世紀末のイギリス人船乗りの漂流時の“人食い”の話が語られる。一人を殺して食べることでほかの三人が命を長らえたという話。その前の章では「あなたが電車の運転士だったら5人を助けるために1人を殺しますか?それとも1人を助けるために5人を殺しますか?」などなど。。。どれもこれも明日わが身に起きる確率は高くはないが、現実的に十分起こりえる(世の人すべてにという意味ではない)事態であるだけに、「麻布の価値はこの場合ー云々」の資本論などよりよっぽど読みやすい。なんというか、俗人化された哲学書とでもいえましょうか。
思想的な深さはないし、政治哲学に新たな何かを持ちこんだという点も全くなく、その意味では凡庸な本だ。それもそのはずで、基本的には大学学部生向けの講義が元なのだから。
ただし、哲学書でありながら、一般人にも「読ませる」本である。

で、俺の読後の印象および批判。

著者の主張は明確である。
個人はすべて社会=コミュニティに埋め込まれており、社会が保蔵する「物語」にその価値観は依拠していると考えるのがサンデルだ。ある意味で保守主義的ではあるが、本書のほとんどの部分は功利主義や自由至上主義の批判に充てられており、サンデルが言う「共通善」がなんであるのかはどうしても判然としない。「あるだろう!たぶん!ほらどこかに!」、そういう感じなのだ。

俺は、この本の部分部分で「我々の身の周りには哲学的な事柄がたくさんあるのです。それらについて考えることが大切です」という暗喩を看取してしまう。そこにどうしても価値相対主義者の本質を見出さざるを得ない。
この時代に、「価値相対主義(何が正しくて何が悪いかなんてことは決められない。すべては相対的だーという考え方)はだめだ」ということは、すなわち「絶対的な価値がある!」と主張することに等しい。絶対の価値。そんなものは、絶対的に存在しない、そういう精神の構えを常とするのが21世紀のこの「豊穣」の日本を生きる多くの民ときている。
だが、俺は、価値相対主義を一つの思想として認めようという気にどうしてもなれない。
例えば、「国民の3%が飢え死にしても97%が豊かに暮らせればいい」(=功利主義)とか、「その人の内臓は彼自身のものだから、彼がそれを市場で3000万円で売ったって問題ではない」(=自由市場主義)とかいう主張に対して、「なるほどそういう考え方もあるよね」などと言っていては何も決まらんではないか!
我々が生きているのは、常に臨界的な状況における決断を迫られる現実的な生なのだ。特に、それが公共的な事柄に関する決断であり、大きな規模のものであったならば、とりわけそうである。
「イランの核兵器という脅威を取り除くための自国の若者を数千人単位で死なせること」は正しいのか???とどこぞの国の大統領は数年後に自らに問わねばならんのかもしれぬ。こういう状況において、俺は価値相対主義は無効であると言っている。大学のゼミの教室や京大のルネで昼飯を食いながらあーでもないこーでもないと語る分にはいい。自らを、決断をなすべき人間を以て任じるならば、価値相対主義の海に泳ぎ遊んでいることはできぬ相談だ。

もちろんかかる批判は俺の誤読のせいかもしれぬ。実際にサンデルは最後のページでこう言っている。

「これまで我々が慣れてきた生き方より、より活発で深く関与した公共的生活が必要だ。この数十年で我々は、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、それらを無視し、それらを邪魔せず、それらにーーー可能な限りーーーかかわらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった。だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない」

だが、上でも述べたように、やはりサンデルにはあと200ページを使ってコミュニタリアンという保守主義者が依拠すべき「共通善」を支える「埋め込まれた物語」とは、アメリカにおいてはなんであるのかについて語ってほしかった。
だが、それをしなかったこともよく分かる。
それをしてしまえば、彼は米国の赤と青=民主党と共和党の二項対立に象徴される、「どちらか」の側に完全に喧嘩を売ることになるのである。
だが、思想を持つということは、何かを主体的に信じることだとすれば(合理的に選択することでは断じてない)、そこにはやはり闘争の影が忍び寄る。それを避けていては歴史に名を残すことはできないだろうが、現在はそんな人物を受け入れる時代ではないのかもしれぬ。

こういう学者や著作が、米国で生まれたことの意味は容易に理解できる。
あの国は、WASP(White,Anglo Saxon,Protestant)を中心としながらも、やはり歴史的な軸としての中心を持たぬ若い国であり、その内部における葛藤たるや日本人の想像に絶するものがあるのだろう。日本人は、広島県では同性婚は合法ですが岡山県では同性婚は違法です、という状況に耐えられるだろうか。日本人は、国民のなかの一定の人口が、進化論を学校で教えることに反対していたとしたら、どういう顔をするだろうか。
アメリカは、常に分断の危機に晒されている国である。その要因というものが非常に具体的で現実的であるがゆえに、それをどのように理解するか、それをどのように一人の知識人として語ってみせるかということは、米国インテリ層にとって必須の教養なのだと思われる。
そして、恐らくは、日本でこの著作が大売れしていることにも背景がある。
すなわち、社会の分断それである。
本屋の入り口で「これからの正義の話をしよう」の平積みをみてから、雑誌が並べてある書棚の前にたつ。そこで俺は、LEONをパラパラとめくってから、チャンプロードを手に取るのだ。完全に、別世界である。
現在の日本においては、雑誌は性別・年齢・収入・生活スタイルなどによって見事に区分されており、近年とみにその傾向は顕著だ。さらに、これまでは洋服のみに注力してきたファッション雑誌が、住宅・レストラン・車・娯楽など生活全般を包括する「生活スタイル雑誌」となってきている。それが政治的に意味するところは、すなわち社会の階層化である。一億総中流の時代はとうの昔のことだ。
そういう時代にあって、階層間の利益の不一致は否応なく高まっている。丸の内で巨大資本を動かす商業エリート(エリートではなく商業エリート)は、資本の高度な流動性によって莫大な富を得るが、地方の普通の労働者は新興国へ流入する資本と立ち上がる工場で生産される安い工業製品に彼の生活を脅威されている。両者のみている世界はあまりにも違いすぎる。
そのことの経済的な意味は確かによく喧伝される。たとえば、「格差社会」という言葉はまさにそれを象徴している。だが、このことの政治的な意味、日本という国家にとっての意味はあまり言及されない。過去の半世紀人類史にないほど平等な時代を生きた日本人は、もはや階級により分断された社会というものを想像できないのではないか。
話は変わるが、このような時代に「国民のための政治が大事だ。マニフェストが大事だ」などと言っている初老の男性は阿呆だ。「国民」という一体性に対する脅威について語ることはできんのか。

自由至上主義と功利主義への批判の書として読むならば、非常にすぐれたWeaponとなるだろう。
しかし、コミュニタリアンとしてのサンデルに期待して本書を手にとるならば、恐らく失望することになるだろう。


独り言:

Gmailである人に「ロンドンに行くんだが、相変わらずあの国の英語はよく聞き取れません」と書いたら、Gmailの画面の右側に「英語に自信のない人、救います!」という広告が出た。大笑海水浴場である。

熊の回し蹴り(youtubeより)
http://www.youtube.com/watch?v=jHayG0I2ZJc


”浅き川も深く渡れ”
ー星野道夫

西部邁「小沢は背広を着たゴロツキである」、必読である。
誰にかというと、民主党あやしすぎる。。。と思っている総ての人に。

オバマさんは偉い政治家だと思う。
The Economistもほめているが、彼は米国の限界を知ろうとし、それを明確にしながらも、米国でしかできない超大国の責任を一気に放りだしたりはしない。平衡感覚のある人なんだろうなと思う。彼と話すのは、たぶんとても楽しいのだろうと想像してしまう。彼には彼が目指す究極の理想があるんだろう。