2011年2月2日水曜日

超自己愛主義の論理と心理

現在自分が所属している職場・学校・倶楽部・団体、そういう組織における自己の周囲との不調和を殊更に強調し、自分がいかに現在いる場所に適していないかについて語る者は、常に一つに願望を持っている。
それは、

「ここではないどこかに、自分に適した場所、集団があって、そこでは現在の自分の不調和の程度を同じ程度に見事な周囲との調和と自身の能力の発揮が約束されている。自分は、この場所にいるべき者ではない。」

そういう願望だ。

自己愛が極限まで肥大すると、自身の効用についての意識は爆発寸前にまで高まる。
だが、歴史的個人を除けば殆どの個人にとって、社会は彼とは無関係に存在するし、彼の効用が彼が期待するほどに発揮される(例えばメジャーリーグで首位打者になる)ことは極めて稀なことでしかない。
つまり、「ここではないどこか」などない。
彼は、肥大した自意識を沈めて人格を論理的に成立させるために、社会を否定せざるを得ない。
自分以外の社会を、一般論的に、抽象的に否定することでしか、自身を肯定することができない。彼は、現在の社会を見渡して、容易に批判できる対象を常に探している。この時、彼が発する批判は手段ではなく目的である。

意思に燃える若者の、自身は周囲の凡百の民とは異なるという傲慢は、他者との不調和によって増幅される。
何も成し遂げていない彼が自己を肯定するためには、他者は自身と同じであってはならない。それが故に、彼は常に他者を否定する。自己以外のすべてを否定し続けた挙句に、彼は心理的な袋小路に陥る。
なぜなら、彼は周囲を否定するのだが、彼の目標と現在の彼との距離の存在を肯定する勇気を持たぬからだ。見下した、自身とは異なる一群の集団に注目し、それと自身との差異を強調し、それを理由に自身を特別なる存在と看做す。目標との距離は無意識的に無視され放置される。永遠にそれが縮まることはない。

これほど愚昧な思い込みがほかにあるだろうか。これほどの不格好がほかにあるだろうか。

「そこ」に行けば自然に自身が自身の主人であるかのように振る舞うことができる場所なぞ存在しない。
そのことを、そのことだけを、決して忘れてはならないと思う。
その場所は、客観的に「ある」のではなく、苦闘の末に自身がそこに「ある」ことを発見する、そういう類の時間(場所)だ。

最近のマイブームはなんですか?と問われれば、
「自己否定です」と答える。
有り難い友人が伝えてくれた言葉だ。

こう言ったあとで、それでもチャーチルのこの言葉を放り出すつもりはないことを告白するほどに、俺は正直者でもある。

”人間は皆、虫だよ...だけど、僕だけは...蛍だと思うんだ。” 

独り言:

2012年の年央までに中東でもう一つ戦争が勃発しそうな気がする。
ナイーブに、「戦争で利益を得るものはいない」などと言う人は、人類の数万年の戦争の歴史を、人類の単なる非合理性の結果として片づけるのだろうか。
日本が戦争でどれだけを失い、どれだけを獲得してきたか。
明治以降の現在までの世界の戦争において、ネットで「日本は儲けてきた」から今の日本があるとさえいえるかもしれない。
大東亜戦争だけが「戦争」ではない。日本が大儲けした戦争も20世紀にはあったのである。
誰かが何かを失うとき、遠くで誰かが何かを得ていると考えたほうがいいだろう。