2011年2月27日日曜日

着道楽の弁明

「ソクラテスの弁明」をもじった。

数年前に親父に「着道楽じゃのう」と言われたことがある。
自分でもむべなるかなという感じは確かにあって、実際に身につけている洋服や持ち物をみると相応の値段のものが少なくない。
Mokintoshの塹壕外套(さっき本屋で雑誌「Classy(階級的?)」の表紙に「I Love トレンチ!」とあったが、直訳すれば「塹壕大好き!」やぞ。誰を迎撃するんじゃ)、FRAYのシャツ、山陽山長の靴、Crucianiのセーター、Moreskinのノート、Lammyのボールペン、それからもちろん「バイエルンのエンジン製造会社(=BMW)」。いずれも学生時代からすると、ちょっと考えられない値段のものが多い。

軍人勅諭にも「軍人ハ質素ヲ旨トスヘシ」とある。
にも関わらず、俺が自分の着道楽を否定できないことには、それなりに重要な理由がある。

日本人は、物を大切にしない民になったという感覚を非常に強く抱いたのは、2007年にアレン(義兄)の実家をオランダはフリースランドに訪ねたときのことだった。
大歓迎で迎えてくれたアレンのお母さん(ニスケ)に、とてつもない重厚感のある食器棚に驚いた俺が、「これって何年ものですか?」と尋ねると、「そうねぇ、たしか18世紀の終わりごろにひいお爺さんのお婆ちゃんが買ったものだったかしら...」と言いながらそこから珈琲カップを取り出すのだ。
信じられなかった。冗談かと思った。
その隣にあるこげ茶色の巨大な「おじいさんの古時計」のような時計は、150年ものと言われたかな。

自分の身の回りをふと見渡してみてほしい。
その財布は10年間使っているか?
そのペンは1年間使い続けているか?
その珈琲カップはあなたの家のだれがいつどういう思いで買ったもので、これから先いつまで使うのだ?どこのメーカーのものだ?誰が作った?

日本のどんな名家であっても2世紀、3世紀前の家具をまったく普通に使用している家というのはけっして多くないだろう。それが、このオランダの可愛らしい家のリビングでは、まったく普通に毎日の生活のなかに溶け込んでしまっているのだ。なんだあれは。俺は驚愕した。そして、オランダという国の国力を、オランダの片田舎のこの家の古ぼけてはいるがあらゆる歴史を眺めてきた食器棚に教えられた気がした。
そういうところに育ったアレンも、当然ながら同じ価値観を持って生きているようで、例えば彼がいつも腕にしている腕時計は19歳の時に母上に大学の入学祝いに買ってもらったという(たぶんノーブランド)のなんてことない時計だったと思う。
俺の会社の上司は猫も杓子も「ロレックス」という腕時計のキラキラしたのを付けている。まことに対照的だ。家族自慢だが、そういう時計を大切にしているアレンのほうが、人間として完全に俺の上司などより格が上である。

先日あるテレビであるオランダ人の休日が出ていたが、それはこんな具合だ。
日曜日の朝、家族みんなで裏庭の畑でいろいろな野菜を収穫する。それらを用いてサンドイッチなどの弁当を作って、12km先の広大な公園(日本の公園とは次元が違うことは欧州の「公園」と呼ばれるところに一度足を踏み入れたことがある人なら分かるだろう)に自転車で行く。この自転車が1964年製。自転車で安全に通行するためにゆったりとした自転車専用道路が整備され、歩行者とすれ違うことも、自動車にパッシングされることもない。
恐らく、日本人がこういう生活を始めたら、GDPは成長しないだろう。だが、地球がいよいよ真っ赤になりかねないこの21世紀のおいて、我々はこういう暮らしをする「べき」ではないのか。

より新しいもの、より便利なもの、より使い勝手がいいものを追い求めれば、経済は成長する。実際のところ、戦後日本の経済成長(だけではなく現在の中国もインドもすべてそうだろう)は、これによって駆動された。
だが、それは、必然的に悪しき副作用を伴う。すなわち、大量生産は、大量消費と大量廃棄なしにはあり得ない。人口13億の中国の消費を「チャンスだ!」と俺が勤めている商社の社長なども鼻息が荒いのだが、ちょっと待てや。中国に五〇〇〇〇〇〇〇〇台の自動車が走りだす時、この地球は死ぬんじゃないのか。中国にコンビニを日本と同じ人口対比で作ることが、人類の幸福につながるのか。

俺はエゴイストである。
俺がしたいことをするし、俺がしたいことをできない世界に興味はない。
65歳になったときに、近所の野池で俺は健太郎とヘラブナ釣りをしながら妻が握ってくれた握り飯を「うまし」と言いながら食いたいんである。で、政治や哲学や経済や野球のことを語りたいんである。

さて、着道楽、である。

物を大切にしよう。
スーツには毎日ブラシをかけて、一年でも長く美しくきられるようにしよう。2週間に1度は靴を丁寧に磨こう。食器や家具は、少し高くても300年使えるもの、壊れてもすぐに直せる頑丈なものを手に入れよう。
身の回りにある全てのものが、俺にとってはかけがえのない大切なものだ。なぜなら、それらの一個一個には、それを手にいれた時の記憶が鮮やかに刻みつけられており、手に入れた後にそれとどういう風に付き合ってきたかという記憶が存在するからだ。

贅沢をしないこと=質素、それは、必ずしも廉価な商品ばかりを買うことではないはずだ。
逆に廉価なるものばかりを買って、それらになんの愛着も持たず、100円のペンを芯を一度を入れ替えずに使い捨てるように消費する。それが劣等の生活様式であることに我々はそろそろ気が付いてもいいころだ。ドンキホーテという異様な店の繁栄は、我々大和の民族精神の退廃の象徴であるということを知れ。

こういうわけで、俺は文明史論的に我が着道楽を肯定する根拠をここに得たわけである。
ベトナムの労働者がシャツを作ってそれが3000円で日本で売られてベトナムが豊かになることも大切であるが、シチリアの爺さんが手縫いで作ってくれるFRAYやFinamoreのシャツを、俺を大切に着続けようと思う。

今は、チャーチルが常に携帯していたというGlobe Trotterのアタッシュケースが欲しいなぁ...と思っているのだが、あの頑丈な鞄はどう見ても60歳までは使えるだろうから45000円を出してもけっして高くはないと思われる。30年ローンとすると月の支払額は125円である。

どうでもいいが、今欲しいものは、次の通り。
日本刀一振。山田方谷先生の書かれた掛け軸。能登上布の着物。チャーチル全集。三島由紀夫全集。