2012年6月24日日曜日

フロマートカのロシア共産主義観は、正しい


チェコの神学者、ヨセフ・ルクル・フロマートカ(1889~1969)。
この人を知ったのはいつだったか、鴨川の河畔でいつものようにたまに鳶を見やりながら佐藤優氏の本を読んでいたときのことだったと記憶している。

この神学者の国家観、ロシア共産主義観に共鳴するところが俺は非常に多いと感じた。
共産主義を、戦後のアメリカや日本のように「悪魔」として片づけて善悪二元論に封じ込めることなく、「歴史とは、内的、外的生活双方を巻き込む複雑な過程である。社会主義を建設しようとしている東ヨーロッパで生きているわれわれは、社会主義者の目的と目標の統一性を個人的に経験するのみならず、同時に精神的伝統と育ってきた環境によってお互いに異なっているのだということを自覚し始めている」というフロマートカは、パトリオット(愛国者)であり、キリスト者であり、保守主義者であったのだと思う。

「共産主義を単なる抽象的イデオロギーや小さな陰謀グループによって樹立された暴力的クーデターとみなすことなく、ロシア革命の意義を理解する」ことが必要であるというこの神学者は、ロシア共産主義を、西側の資本主義者が言うような一つの独立した抽象的なマルクスの教義を盲信する一宗派として理解することなく、伝統と歴史が育んできた具体的で個別的ななにものかと抽象的で一般的ななにものかが合成されたときに生じた、まさにロシアに土着のものとみた。

この立場に俺はほぼ完全に賛同する。

言葉遊びではない政治、何かを動かす力を持った政治というものは、必ず理論と言葉を超え出て行動に至る必要があるが、その原動力となるものは常に我々民族が個別に共有している原体験ともいうべきものなのだと思う。
その原体験というものは、おそらく神話な物語として民族・国家に語り継がれていくべきものだ。
それを失った国家は、もはや国家として独立を維持できはしまい。
一つの革命が、誰かの頭から出てきた論理的思考の記述のみによって行えるほど、人間はあやふやな存在ではないと思う。我々は、肉を食い、血を迸らせて生きている。


抽象論に走り過ぎたかなぁ。

面白いからぜひ読んでみてください。
神学者なのに「闘争を!」とばかり言うんだから。
おっと、違うな。神学者だから、闘争に向かわざるを得ないのだろうね。
ルターしかり、マーチン・ルーサー(ルター)・キングJrしかり。

もしかしたら、戦後の日本という国は、あたかもフォードを真似たトヨタが大成功をおさめたように、ロシア共産主義とマルクス・レーニン主義の薫陶を受けたかつてのエリートたちが、日本という国家の成り立ち(Constitution)と伝統を熟知しながら、東アジアの冷戦構造という国際政治環境のなかにおいて、一つの共同体=日本が最適の経済社会構造を獲得するべく編み出したものなのかもしれない。
すでにそれは時代に沿わぬものとなり大規模な改修工事が必要だとしても、その秀でた営みは、やはり賞賛されるべきだ。

今日AERAを立ち読みしていたら、中田英寿氏が武蔵御嶽神社に参拝していた。
が!残念なことに大口真神(オオカミ)についての記述は、「ここはおいぬさま信仰でも知られ、ペットの犬を連れて参拝する人も多いらしい」とだけ。
それは、おいぬさまではなくて大神=オオカミなんですよー
(今年1月の本ブログ記事をご覧ありたし)

フロマートカつながりで、ベルジャーエフ「ロシア共産主義の歴史と意味」をぜひ読んでみようと思う。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95

現実世界のなかに生きるからこそ、勉強のしがいがあるのだ。いや、勉強できること、気が付くことがあるのだ。
大学のなかでは体験できぬことを体験しているのであれば、それを以て自らの知的・精神的成長の肥やしとせねばならぬ。
それは俺にとって死ぬ瞬間までの課題である。なぜなら、俺の知的・精神的成長は、俺が絶対的孤独のなかで生きるのではない限り、必ず誰かに伝えられるものであるからだ。
それが間違っていたり批判を呼ぶものであったりしたとしても、まさにそれが故に他者の思考を刺激することもあるだろう。俺が求めるのは、そういう対話であって、おしゃべりではない。
生きるために必死な動物たちは、おしゃべりをしない。
そして俺は必死なのだ。
必死じゃない人はのんびりやっててくれ。飯食って太っててくれ。女連れて遊んでてくれ。
だが俺の邪魔をするな。

革新的な日本料理で有名な料理人、山本征治(日本料理 龍吟)の言葉を引こう。

”進化は、今を生きるものの責務である”