2010年10月31日日曜日

ニーチェの死生観

”多くの者の死するは晩きに過ぎ、少数の者の死する早きにすぎる。かの教えは、いまだなお耳あたらしく響くではないか、-「死すべき時に死ね!」-ツァラトゥストラはかく教える。もとより、生くべきときに生きざる者が、いかにして死すべき時に死にえようぞ?
・・・我は教えよう、ー生ける者のために針となり、かつ誓約となるべき、完成せしむるところの死を。
完成せしむる者が死ぬるや、希望する者、誓約する者に囲まれて、勝利の栄光の中に逝く。
人はいかにして死ぬかを学ばねばならぬ。かくして、死にゆく者の死こそは、祝祭である。かならずや、生き残る者の生を浄化する!
かくのごとく死するは最善である。次善は闘争の中の死である。・・・”

-ニーチェ、「ツァラトゥストラかく語りき」上巻、P.167-168

今年2月の俺のノートにこんな書き込みがあった。似とる。
(我が叔母の死に面して、我が祖母に宛てた手紙の一文である)

・・・しかし僕はこう信じます。
真っ当に、美しく生きた人間の死は、けっして誰も不幸にしはしない。死別の悲嘆を乗り越える力を豊かに与えてくれるのは、故人の無言の強い生き様であると。それは残された我々に、感謝、敬虔さ、さらに生きるための活力を与えてくれると思うのです。おばちゃんはすでに天に上がられ神となられました。僕は今日、おばちゃんに天でやがて会うときに恥ずかしいおもいをさせぬようこれからの人生を必死に生きるのだという覚悟を新たにしました。つまり、我々は他者の精神において永遠に生きることができるのです。
僕は、おばあちゃんの孫にうまれ、大切に滋養頂いたおかげで、この国を愛し、人のために命を燃やすのだという決意を持つことができました。これだけでも十分過ぎる幸福です。おばあちゃんの娘として生まれたおばちゃんも、僕以上に幸福なる人生を生き切ったのだと、誰しもがそう信じていることを僕は全然疑いません。

己の死を祝祭としよう。
己の葬式が、涙も重大な喪失の感もなき、浅薄な形式のみの儀式にならんことを恐れよう。

「あるべき死とは、あるべき毎日の積み重ねの上にしかない」(ニーチェ)

追伸:俺が、ここで「死」について語ること、それを以て俺を誤解されることは全く我が意図に反する。俺は、現代人のほとんどは、死を遠くに追いやりすぎたと思っている。そのせいで、生の輪郭がぼやけまくりではないか!生きてるのか死んでるのかよう分からんサラリーマンの月曜日の朝の電車の顔’s!どうせ50年もすれば同窓会名簿はスカスカになっていくのだ。その時間を、「まだまだ長い」とみるか、「あと50年しかない!」とみるか、どちらが生きるに値する人生か?
俺が生きる日数は、今日2010年10月31日を含めて、残り13,654日である。何年何月何日でしょう?長生き過ぎるかなぁ?