2011年9月7日水曜日

なぜ我々は人について話をするのがかくも好きなのか

ある時、田園都市線の急行電車に乗っていると、にぎやかなタブロイド雑誌の釣り広告がぶら下がっていた。それを見た妻がつぶやいた。
「人のことばっかりやな」と。
たしかに。
誰が不倫した、誰が逮捕された、誰と誰が熱愛(なぜこの「熱愛」という言葉は芸能人の色恋沙汰についてのみ使用されるのか?)した、云々。よくもまぁそこまで人についての情報を漁ってきて、これまた人についてのみに週刊誌なり月刊誌を作れるものだと、二人で感心した。

人、他人への関心...というものは、恐らく俺に最も欠落しているものだと思う。
関心がないというよりも、どうでもいいというのが一番だ。
誤解を避けるために言っておきたいのは、「一般的な他人」への関心を俺が持っていないということだ。俺は俺が関心を持った対象に対しては、人であろうが物であろうがかなり執拗である。獲物を60kmでも群れで追いかける灰色狼のような具合だ。

そういう俺が、3年前に会社に入ってすぐに先輩に言われたのは、「お前は人に関心がない」ということだった。
「『人』って誰ですか???(西郷隆盛も人ですが)
と尋ねると、「会社の同僚や、お客さんや、自分以外の人ってこと」という回答が返って来た。
無理(理が無い)を言う人だと思った。
匿名の、一般的存在である「自分以外の誰か」全体に対して関心を持つなど、できる訳がない。「人が好きです」というのはまぁいいとして(世の中の誰でも好きです、という奴は信じないが)、世界のどんな他者に対しても「関心を持っています」などと言う人間を信じることはできない。

なんとなく、なんとなくだが、分かる気はしている。
組織のなかで生きていて、その組織のなかできちんと立ち回ることが生存の可否に直接的に関係しているような場合、人はその組織内の人間に関心を持たざるを得ない。上司はどういう人間であるのか、組織全体としてどういう風土であるのか。組織内の政治権力はどのように分布しており、どのように行使されているのか、云々。
だから、組織のなかに生きる社会的存在にとって、周囲の人間について知ることは、多くの場合生存という最重要の目的に対して非常に重要な要件である。
だからこそ、サラリーマンの居酒屋での会話は①同僚の悪口を含めた批評か、②社内人事の噂、のいずれかに終始することがあまりにも多いのだ。そういう飲み会に行きたくないというと、「お前は人に関心がない」と批判される。
これは、会社に入らなければ絶対に体験できなかった面白い人間たちの生き様であり、とても興味深い。
もっとも、こうは言っても俺は次のことをよく理解している。すなわち、年を重ねれば25歳の頃のように酒を飲みながら理念を語る友が少なくなり、せわしなく忙しい毎日を嘆きあうことが低き者の慰め合いにはなるということを。そして、人生において、少なからずそういう時間を必要とする人がいるということも。

世界全人類を「愛する」ことができないように、我々は「人」に関心を持つことはできない。
愛といい、関心といい、それらは一般的ではない特殊的な対象にこそ向けられるものであるからだ。
俺は、人になんの関心を持たず、そのことを不安に思っているような人にそんなことは全然問題ではないと言いたい。
俺は、そういう群れのなかに入ってタブロイドのネタに盛り上がることを拒否「せざるを得ない」人にこそ、強い関心を持つ。

いい加減に、「友達百人できるかな」というあの人間観から抜け出そう(他の人はどうか知らんが、俺は友達が100人もいたらやりたいことができなくて困る)。友達がいることが善で、友達がいないことが悪なのではないし、またその逆でもないだろう。
我々は、他者との関係性、或いはその密度によって自己の全てが規定されてしまうほど小さな存在たるために生まれてきたのではないのだ。
大人の世界では、人脈がものをいうこともよく分かる。そりゃ人間が作る社会なんだからそうだろう。
だが、それでも俺は、断固として独立国でありたいと思う。戦争をしてでも俺の独立を守りたいと強く願う。

F・ルーズベルト米国第32代大統領の夫人であり、文筆家としても名高かったエレノア・ルーズベルトの有名な言葉を銘記しよう。

”Great minds discuss ideas.
Average minds discuss events.
Small minds discuss people."
(偉大なる知性は理念を論じ、平凡な知性は出来事を論じ、下等な知性は他人についてお喋りしている。)