2011年9月19日月曜日

ローストビーフと分業社会

先日、自分でスツールを作った。
下に張り付けた通り可也頑丈で、100㎏程度の荷重なら耐えられそうだ。我が家で踏み台や来客時の椅子、ベッドサイドのテーブルとしてすでに大活躍している。

ところで、資本主義社会とは、一つの重要な面として、分業社会である。
アダム・スミスやデヴィッド・リカードなどの自由貿易論者は、それぞれの国が「比較優位」を持つ分野・産業に特化することで、全体としての効用が増大するといった。これを個人に敷衍して言えば、一人の人間は一つの特殊な事に特化しそれに専念したほうが、その個人としても社会全体にとっても最適であるといえるだろう。
コンサルタント、会計士、弁護士、医師、ビジネスマン。これだけの分類が実社会の実情とは全くかけ離れていることは論を俟たない。一つの企業のなかであってさえ、特殊な技能や知識を武器にこの社会を生き抜いている者は多い。極めて高度な金融工学を駆使して数億円のボーナスを得る証券会社の社員などはこの典型だ。

俺は、昔からこういう「専門家」にいくらかの憧れを抱きながらも、どこかでその脆弱性を恐れてもいた。

つまり、こういうことだ。
例えばあなたが金融工学の修士をロンドンのウェストミンスター大学で修めていて、ロンドンはシティの銀行で10年間の投資銀行業務における経験があるとする。この場合、あなたはシンガポールであっても、東京であっても、ニューヨークであってもフランクフルトであっても、ある程度の高収入を期待できる(リーマン・ショック前ほどではないにしても)。つまり、あなたの専門的な知識や経験は、明らかに他者とあなたを区別しあなたを有利な場所に置く武器である。

だが、その武器は、”常に有効なわけではない”。
すなわち、金融工学を駆使して稼ごうと思えば、電気がなければならない。コンピューターが動かないからだ。金融業界で稼ごうと思えば、異常に乱高下する債券・株式市場であってはならない。算術的に利益やリスクを測定できないからだ。さらに言えば、「警察力と軍事力により担保された秩序が維持されていて、生活必需品が適正な価格で安全に入手でき、かつライフライン(水道電気瓦斯)が維持されていること」が必要だ。

何を言うのか?と思われるかもしれない。
だが、特定の組織を除いて、社会における全ての組織は、上の前提(斜字)の上に成り立っている。
”特定の組織”とは、軍隊である。
東日本大震災が発生した直後の被災地で、最も頼りになったのが自衛隊であったことの根本的な理由は、巷によく言われた「自己完結性」ということなのだが、ではその自己完結性が自衛隊=軍隊(特に陸軍)に求められる最大の理由とは、そもそも軍隊とは、上記の前提が成立せぬ場所で活動(=戦闘)することを第一義的な目的として存在しているということに求められる。

遠回りをしたのだが、言いたいことはこうだ。

俺は、現在の社会から逃避しようとは思わない。その限りで、俺自身が特定の能力なり知識なりを求めて獲得し、それによって生計を立てていくということは、欠くことべからざることだと思う(なんの専門もないけど)。

資本主義社会なんぞ、せいぜいが200年と少しの歴史を持つものに過ぎない。
人類(ネアンデルタール人)が生まれてから20万年。そのうちの、たった200年なのだ。近代資本主義以前にも分業はある程度あったと考えて100歩譲ったとしても、せいぜい1000年だろう。20万年のうちの19万9000年は、人類は、ほとんどの場合自分でなんでもかんでもやってきたのだ。
家の屋根が台風で飛べば自分で屋根に登って直し、食糧を自分で保存して冬の備えとし、獣の毛皮を乾して衣類とし、その牙で武器を作った。で、そのか弱い武器で獣を追う。
現在の社会が自分が死ぬまでずっと続くと考えて、ひたすら専門を磨くというのも一つの手だ。だが、東日本大震災を見たとき、俺は自分が自分の手一つでは火を起こすことすらできぬなんともひ弱な生き物であることを痛感させられた。水の供給でさえ、そこら辺のコンビニ・スーパー・水道会社に頼りっきりなのだ。これは、危険なことである。有事への備えという意味で、俺は全くなにも準備できていないのだ。

こんなことを考えたのは、さっき家でローストビーフを作ったからだ。
昨日、ユニフレームの一番大きなダッチオーブンを購入した(http://www.uniflame.co.jp/products/DutchOven/products_list.htm#products01)。こいつで、500gの牛肉をローストしたのだが、たいそう旨いのだ。レストランでローストビーフはもう食べぬ。自分で作ると矢鱈と楽しいし(問題は1㎏の肉塊があまり売っていないことだ)。
妻は、結婚披露宴のドレスを自分で縫うと言う。家のジャムはすべて手作りだ。味噌も、梅酒も、たぶんそのうちヨーグルトも。

思えば、GDPとは変なものだ。
俺が、家で家具を作ったり料理をしたりするよりも、家具屋で家具を買ったり外食したりするほうがGDPは拡大する。で、現在の日経新聞的な文脈でいえば、それが善なのだ。だが、それは本当か?
俺の妻が家でするどんな仕事も(ドレスを縫うことも!)、GDPにはカウントされない。
個性なきありふれた使い捨て商品だらけの大量生産大量消費を必要とするスーパー分業社会は、これからもずっと続くのだろうか。俺には疑問である。
消費することではなく、生産すること(働くこと)を生きがいとしてきた団塊の世代とそれに続く世代がこれから一気に定年を迎える。ここには、大きなビジネスのチャンスがあるように思うが、それは彼らを「消費者」としてみる限り成功しないだろう(我が父は「消費者」にはなりえない)。

新しく来るべき社会は、さらに高度な分業社会ではないのではないかと思う。
人間の幸福が、「消費」にあるとは俺にはどうしても思えないのだ。
イノシシの肉を食べるのはそりゃおいしいのだが、それよりもイノシシを捕まえることのほうが明らかに血沸き肉躍る体験でしょうに。