2011年9月25日日曜日

宮台真司「宮台教授の就活原論」太田出版




「就活原論」と書かれ、就活関連の書棚に置かれてはいるものの、これは就活中の学生だけに読ませるにはもったいない、しっかりとした社会論だと思う。そこらへんの新書などよりはるかに読み応えがある。
以下は読書メモです。
関心がある労働者(not 就活生)は、2~4章だけを読めば大体枢要な箇所は押さえられる。


著者は、何度も我々が会社だけに依存することなく、会社以外の場所に「帰還場所=出撃基地」を作るべきだという。平時を前提とした市場・国家への過剰な依存は、市場のグローバル化(賃金への下落圧力、雇用の不安定化、国内産業の空洞化)と国家(日本)の抱える巨額の財政赤字によって、ますますリスキーなものになりつつある。
そこにおいて我々今求めるべきは、市場・国家とは別の位相において個人の感情的安全を担保するところの「相互扶助的な共同体自治」であるべきと主張される。


余談だが、戦後日本においては、企業戦士は家庭をほとんど無視するかのように企業に忠誠を誓ってすべてを捧げ、代わりに企業は従業員に終身雇用と定期昇給を約束した。そして、より大きな産業全体は、通産省(経産省)や大蔵省(財務省)という国家の機関により統合的かつ傾斜的に配分された資源を用いて異常な速度で成長・拡大していったのだった。
つまり、戦前の国家への忠誠は、戦後は企業に移し替えられたのみなのだ。天皇陛下万歳と叫んで突撃する兵士と、働き過ぎて過労死するサラリーマンは、本質において全然違わない。


興味深いのは、というより今の俺にとって極めて興味深かったのは、「仕事での自己実現(「仕事は命です」というような労働倫理)」が、現在非常に難しくなっているという著者の指摘だ。
なるほど労働において自己実現を達成できることは素晴らしいことだ。
だが、人間の公的・私的両面の生活において、「自己実現」が必ずしも決定的に重要だとは言えないし、「今日のような日が明日もまたやってくる」という、著者がかつて唱えた「終わりなき日常」を生きるという個人があってもよい。


市場や国家に個人が依存し過ぎることの危険とは何か。
それは、リスクが顕在化した際に個人がとれる選択肢が少なくなるということだろう。結局、英国の4倍にもなる日本の自殺率はこれによって説明される部分大である。


著者が言うように、今でも田舎には現存する地域共同体のような場所での「絆コスト」(寄合への参加、川さらい、固定的で流動性のない近所付き合いなどなど)を我々は高く見積もり、それを避けるために田舎を飛び出し街へ出た。その街=東京では、企業戦士は同じ企業に勤めているという事実と深夜までの飲み会により連帯できるが、それ以外の共同体はー地域であろうが学校であろうが宗教であろうがーほとんどすべてが破壊されてしまっている。
だから、共同体としての企業(あるいはそれに準ずる者)に所属しない者にとっては、現在の都市は途方もなく厳しい場所だろう。フリーターは、一体全体どういう「帰還場所=出撃基地」を持っているのだろうか?
「いいとこどりはできない」と著者はいう。感情的紐帯を担保する地域共同体を欲するならば、その分の「絆コスト」は不可避であるということだ。それは実にその通り。自由も安全も一緒に欲しいというのは無理筋の話だ。


著者が言うように、われわれにはあまり選択肢は多くない。どのような方法によるかは兎も角、グローバル化し不安定化する市場と、それが個人に与える負の影響を福祉国家化による財政赤字のために完全には補填できぬ国家から、一定程度独立した、市場の論理と国家の論理とは異なる論理で動く自律的な共同体が必要なのだ。
そして、その根本は、家族だ。
それとともに、地方だ。大都市文化圏に包摂されず、直接に大都市文化圏・世界と繋がる地方。日本を踏み越えて世界という視座で、世界の歴史のなかにおいてその地方を歩みを見つめていくという作業が必要になる。


明日も俺は20時に帰宅しようと思う。
”高度経済成長期風豪傑先輩”が何を言おうと、俺が戦いに向けて出撃していく基地は、妻が待つこの家なのだから。