2011年9月25日日曜日

秋の信州へ②

鹿教湯温泉に一泊し、深夜と早朝の温泉を満喫した後、24日朝10時に長野市善光寺を目指して出発。
道すがら見つけた道の駅にふらりと立ち寄ると、ミョウガ・リンゴ・ゴーヤ・トマト・ネギなどなど野菜がべらぼうにお値打ち価格でおいしそう。というわけで、ごそっと買ってしまった。
薩摩芋のツルが人参の隣にあるのだが、俺も都会育ちだとは全く思わんのじゃが、これ食べられるんね。知りませんでした。
田舎に出掛けたら現地調達するのが一番賢い。少額だけど地方にお金も落ちていくしね。


それにしてもご老人たちが楽しそうに仕事をしていた。
あと田舎の軽トラ比率ってすごいね。軽トラというぐらいなんだから、虎模様の縦縞の軽トラがあってもいいと思うが、みーんな白。あれはなぜなんでしょうか。もう少し遊んでもよいと思うのだが。
蜂蜜はウェールズのもののほうが残念ながらおいしかった。

国道143号線を東へ進むと、千曲川が流れる上田市へ出る。そこで、北へ針路を取り、国道18号線を一路長野へ向かった。こういう美しい山村のなかをドライブするのに高速道路を使うのはもったいない。上田市から千曲市に向かう18号線の左手には千曲川が滔々と流れていて、こんな古めかしく美しい橋もある。その名も昭和橋。九つのアーチが連なる橋で、土木学会選奨土木遺産にもなっているそうな。
ちなみに、ここまで北上してくると分水嶺をとうに超えているので川は北に向かって流れる。高梁川、武庫川、鴨川のそばに暮らしてきた俺にはしっくり来ないがそんな俺の違和感とは無関係に水は北へ向かって流れていた。


さてさて、善光寺に尽きました。いやー大きなお寺ですな。

一か月ほど前に、あるお客さんとこういう会話のありけり。

「長野出身なんです。えぇ、善光寺の長野です。」
(長野はそりゃ分かるんじゃが...ゼンコウジの長野ってなんじゃい???)
「すみません、ゼンコウジというのはお寺ですよね?どちらにあるんですか?」
「あれ、三谷原さんご存知ないですか?あれれ。長野は有名な門前町ですよ。そりゃもう立派なお寺ですよ。」

というわけで、年内に行かずばなるまいと考えていたものだから、温泉で距離を調べるとたった60kmしか離れていないので、ほんなら行ってみようじゃないかいと、こう相成り申した訳で御座候。

善光寺は長野市元善町にある無宗派の単一寺院。山内にある天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」と14坊(?)によって護持・運営されている。大本願は、尼寺。女人禁制が主であった旧来の日本仏教のなかでは、例外的に「女性の救済」が謳われる。
欽明天皇の御世の552年に、百済の聖明王から献呈されたとされる「善光寺式阿弥陀三尊」を本尊として祭るが、これは鎌倉時代以来絶対秘仏とされ、ここ数百年の間見たものはいないとされている。






賢明な読者は「あれ?」と思っただろう。
なにって、上の写真の菊の御紋である。神社にあっては、祭神が過去の天皇陛下であるとか(例えば明治天皇・皇后を祭る明治神宮)、いずれかの皇子であるとかいう場合には、十六八十表菊、所謂”菊の御紋”を掲げる事が許される。これとは別に、官弊社などでも菊の御紋を使用することがある。明治時代に建立され、別格官弊社としての待遇を受けた靖國神社はこれに該当する。

ところが、善光寺は寺なのに菊の御紋を力強く本堂に掲げている。もちろん大門にも掲げている。
それについて物知り顔のおばさんに尋ねると、だいたいこういう背景である。

善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めるのだが、「大本願上人」は、「善光寺上人」とも呼ばれる。この「善光寺上人」という称号は、かつて宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜ったものであるそうな。住職就任のときには、跡目御礼として宮中へ参内する慣例にもなっているという。
元はと言えば、大本願は尊光上人(聖徳太子妃、皇極天皇の命により曽我馬子の娘が出家し尊光上人と称した)を開山上人とし、代々尼光上人により継承され爾来1400年の長きに亘り善光寺如来に奉仕してこられた(善光寺大本願HPhttp://www.daihongan.or.jp/より)。
突っ込まれたら説明に窮してしまうのだが、つまりは大昔から皇室と大本願上人は密接な関係にあって、現在でも大本願上人はかつての公家から迎えられている、とまぁこれは間違いなかろう。


この坊主さんは「大勧進貫主」。「ありがたやありがたや」と言ってみんな頭を撫でてもらっているのだが、俺は自分が犬みたいに思えてしまうからこういうのはいやです。

近代日本国家と仏教の関係なんぞ全く勉強したことがない。
明治期の廃仏毀釈運動のなかで、大日本帝国は仏教とは袂を分かち(神武天皇が天照大御神の直系の子孫であるという日本書紀の神話にもかかわらず、例えば聖武天皇・桓武天皇のように、歴史において神道よりも仏教を厚く保護した時代も多かった)、実質的に天皇陛下を、神道と深く繋がる国生みの神話時代からの歴史と連結することで、国家としての正統性と担保しようとしたぐらいにしか理解していなかった。
だが、それでは一面的かつ浅薄に過ぎる。仏教は、巨大な宗教であり、我が国の成り立ち(Nationhood)を理解するうえでどうしてもこれを避けられない。明治の時代までの千年以上に亘り、日本国家と仏教は密接な関係を維持し続けたのだから。
これを理解していくために、善光寺と皇室の明治期以降の関係について勉強することは非常に有益だろう。誰かいい本を知っていたら教えて下さい。
こんな本(「近代皇室と仏教」、http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4562041773/naagita-22/)があるのだが、15000円はちぃと高いね。

善光寺をじっくり見学した後、敷地の東隣になる東山魁夷館へ。
横浜に生まれ、神戸に育ち、ドイツに学んでドイツに憧れたこの画伯は、ドイツの人たちが都市の景観と自然の景観を一体のものとしてとらえ、大切に維持していることに強く感銘を受けたようだ。ドイツ国内での「窓」をモチーフにした作品を多く残しているのは彼が窓から眺めたドイツの街並みが信じられないほどに美しく、戦後の荒廃していく祖国の都市や田舎の景観との対比をなしていたからなのだろう。

公園で”喫茶 山桜”開店。
夕方にもなるとセーター一枚では肌寒い。


長野市を望む。京都も山に東西北の三方を囲まれているが、聳える山の高さと雄大さは長野の圧勝だな。



長野よ、さらば!
また勉強してやって来るぞ。


そういえば、「牛に引かれて~」を書いとらんですな。