2011年9月26日月曜日

「関東=関の東」


土光敏夫さんの書棚にあったという本を10冊ほど買ったのだが、そのうちの一冊がこれ。
高橋富雄「東北の歴史と開発」。

読書メモです。一章だけだけど。

我々はいつも何も気にすることなく「東北」とか「関東」とか「関西」と言うのだが、例えば「東北」というのは、どこか特定の場所から見た場合にのみ、「東北」と呼ぶことができるだろう。つまり、「東北」という地域が存在するためには、その反対(つまり東北からみた南西方向)に、「特定の場所」が存在しているということだ。世界システム論風に言えば、「中心‐周辺」が存在しているということになる。

東北という地方は、3月の東日本大震災が起こる遥か遥か昔から、日本という国において特殊な場所である(北海道、沖縄の特殊性と質的には同じだ)。日本という国は、神話時代から奈良時代の頃まで、今の日本国家の領土的範囲を持つものではなかった。

例えば岡山県が含まれる「中国地方」は、かつて「なかつくに」と呼ばれていたのだが、これは明らかに三備(備前・備中・備後)を中心とする地方は、かつて近畿の大和朝廷と九州に所在した地方豪族との間に所在する有力地方政権の本拠地であったことを示している。今の日本地図を眺めて、岡山・鳥取・広島・島根・山口の5県を「中国地方」と考えるものはいないはずだ。俺なら「西国地方」と呼ぶだろう。そして、群馬・長野・岐阜の辺りを「中国地方」と命名するはずだ。


つまり、著者が言うように、古代日本とは、つまりは「環瀬戸内海国家」に過ぎなかったのだ。
その真ん中にあったから、中国地方は「なかつくに」だったのだ。そして、「外・環瀬戸内海地域」は「外」であったのだろう。その証拠として著者が挙げるのが、奈良時代までに設置された「三関」である。

「三関」とは、「都の安全を外敵の侵入から守るための防護施設として最も重視された関所」である。
すなわち、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、そして越前の愛発(あらち)関だ。
鈴鹿関は東海道(現在の東名と考えればよい)、不破関は東山道(中央道)、そして越前国は北陸道(北陸道)の始まりとなっている。
ところが、このような関所は近畿の東側にしか存在しなかった。例えば播磨や丹後にあってもよさそうなものだが、なかったのである。どういうことか。

古代日本は、外敵は東から来るという想定のもとに都を防備を固めたのだ。「環瀬戸内海国家」は、東の端を三関において封鎖し、そこからの外敵=東国の侵入を防ぐべく備えたのである。
「関東」は、この「関の東」だから、「関東」なのだ。
なにもなしに「関東地方」なのではない。福島の白河関から見れば、「関東」は「関西」なのだから。
「関西」というものは、「関東」の出現(それは、著者によれば頼朝による鎌倉幕府樹立によって実現された)によって、それまで常に中央であったこの地域が、相対化されたために新たに「関西」という呼称を得たに過ぎない。

さて、現在の関東が中央たる都に対する辺境であるのだから、そのさらに東、さらに北の地方は、「道(=国)の奥」として「みちのおく」=「みちのく」と呼ばれ、この「みちのく」の端は「陸の奥」として、「陸奥」とされた訳である。そして、「東」は、中央=「西」からみれば、征服し植民地化し管理運営する対象だったのだ。そして、その陸奥には今は使用済み核燃用が置かれているのだ。賊藩として一藩流刑というとんでもない罰を与えられた会津藩は陸奥の斗南藩に無理矢理おしこめられたのである。

我々は、戊辰戦争を、「西」による「東」の征服というイメージ抜きに見ることができないが、この戦争も近代における明らかな「西」対「東」の大抗争というべきであろう。
明治の前の江戸時代を決定づけた西軍と東軍による関ヶ原の戦いが、古代より「西」と「東」を隔ててきた「関ヶ原(不破関は岐阜県不破郡関ヶ原町)」で戦われたということも、歴史の偶然というにはあまりに出来過ぎだ。そして、この戦い(と大阪冬・夏の陣)で「西」を粉砕した家康は、ようやく「東」の「西」に対する圧倒的優位ーそれは現在まで続くものだがーを確立した。
さらに面白いことに、江戸幕府の将軍=征夷大将軍とは、「東北を征服し号令する東国の王者」の意である。

我々は、東北を特別視する必要などないし、東北は明らかに日本国家の枢要な一部を構成する。
だが、それは、例えば岡山がそうであるのと同じような在り方ではないのだと思う。勘違いしないでほしいのだが、これは「岡山のほうが東北地方より重要だ」などと言うのではない。
ただ、神話時代以降の歴史において、東北という地方が歩んできた歴史は、あまりに違う。
明治以来日本人は、環瀬戸内海国家でしかなかった古代日本国家を2000年前から現在の日本国家に存在し続けた国であるかのように前提してしまってはいないか。
「西と東の対抗の吹きだまり」としての東北という辺境性とその歴史を眺めるときの主体の位置性には、どれだけ注意を払っても払い過ぎることはない。

「東北」という言葉が意味するところは、3.11以後の「東北」「福島」が持つ意味以上のものを既に持っていたというべきだ。そして、それに対する無関心は、日本国家を内側から弱体化せしめていくだろう。

俺は著者が最初に言う、次の言葉に共鳴するところ大である。

「わたくしは、日本がほんとうにひっくりかえるような革命的なできごとがあるといたしますと、当面の論点からする限り、それは、日本のなかで『西』と『東』の比重が入れ替わり、支配・被支配の関係が逆転することでなければならぬーそんなふうに思うのです。」

東北の復興は、「西」からの独立であるべきだ。
それは、何を伴うものであるべきか?
よう分からんから、考えよう。時間はない。