2010年8月19日木曜日

無意味な言葉たち

過去の鷺沼の戯言を転送しますー

結婚式の挨拶を代行する鸚鵡をレンタルする会社を作ろうかな。
たまにそんなことを考える。冗談す。
先日友人の披露宴に招かれた。
汚い余興もなく、2010年に日本で行われる何万?の結婚式の代表にもなれそうな西洋式の式と披露宴だった。
気になったのは、新郎の父と新郎の挨拶が終わり、新郎に対して他の客と一緒に拍手をしているときのことだ。俺はなんであんな素晴らしくまとまっているが、恐ろしく陳腐でありふれた独創性のかけらもない発言に拍手をしているのか?
問題はこれであった。

新郎の父の挨拶は、人の前で、しかも数百の人の前で話すことに相当に習熟されている方ならんと感じさせるものだった。控え目に行ってもとても上手だった。

1.ご多忙のなか、ありがとう
2.未熟な二人故、今後ともよろしくご指導を
3.最後になりますが、皆様のますますの、、、

披露宴での父の挨拶は、荒っぽく言えばこの三つに一つ二つの小話を入れればまぁ60点は取れるのだろう。

新郎の挨拶。
上の新郎の父とほぼ同じ。なかなか堂々とされていた。
この後、会場は万雷の拍手、である。

いつどこで誰の式に行ってもこうなのだ。一人ぐらい40分間の演説をぶつやつがいてもいいのではないか?と思うのは俺だけか?気味が悪いのはあの挨拶の後の拍手だ。場の空気が拍手しないという選択肢を完全に排除する。それが発話者の陳腐な挨拶を寛容にも許し受け入れる。あそこでは、発言の内容なぞ誰も気にしない。発話者自身さえ気にしていないようにさえ思う。であれば、鸚鵡が喋ったほうが面白おかしくてよろしい。

俺はここに、自分が陳腐な言葉を吐くことに対する嫌悪感の皆無を見るのだ。陳腐で意味のない発話という意味では、ある披露宴での発話者の社会的地位がどんなものであったとしても、彼の自身の言葉に対する感度は、「あれチョーやばくね?」「やばい、チョーうけるんだけど」という不思議な会話の主とさして変わらぬと言える。言葉に意味がないのだ意味が。彼自身がその言葉に彼独自の意味を与えようとする意思がないのだ。
何故だろう。自分の言葉で話したいとは思わないのだろうか。世界の誰も言うことができないことを言ってやろうと思うことは変なことだろうか。
信長ならば自分の式で何を宣言するだろう。チャーチルならどんな古典を引用するだろう。オバマならどんな対置法を駆使するだろう。そんなことを考えないものなのか知らん。
溢れる無意味な言葉。
なにも披露宴だけじゃない。街でみかける標語の数々。例えば、最近みかけたのはこれ。

「守ろうよ私の好きな街だから」

誰から?何から守るんじゃ?私って誰じゃ。この標語が街に数十枚置かれていることで街がよくなるんか?通行人はこれを見て、「よし!国民として国防の義務を果たすために頑強な身体を作らねば!今夜はジムで鍛えよう!」と思うのか?
一番ひどいのはたまに地方でみかける「非核平和都市宣言」の馬鹿でかい看板だ。ある地方自治体が、そういう宣言をしていることを核兵器保有国は知っているのか?攻撃対象から外すのか?

無意味なのだ。鉄塔徹尾。恐ろしいほどに。
しかも誰もそれを批判しはしない。空気みたいに側を通り過ぎる。
誰も言葉の力を信じていない。他者の発する言葉に感動するなんてことはありえないことだとみな諦めている。青山の商社の前社長はまさにこの典型であり、無意味な言葉について僕に考えるきっかけをくれた恩人である。
そんな言葉不信の時代に政治家が街頭演説で、無意味な政策の羅列しか言えないのだ。日本の演説家は絶滅した。我々人間を、ホモ・ロクエンス、つまり「話すヒト」として定義するならば、人間は会話と言葉によって人間足り得ている。それが劣化し、その意味が問われぬということは、すぐさま人間そのものの質的劣化を招来するほかあるまい。
雄弁という言葉の60回忌ぐらいの法要が必要だ。俺は常に俺の言葉を吐こうと思う。
それができない場合はだまろう。それが、言語活動におけるナルシシズムと人が言うならば、それはまさにそうでありましょうな。